2009年10月のアーカイブ

❛縁❜ということ

 聖書の中の言葉で、例えば、「豚に真珠」はマタイ福音書7章6節に出てくる言葉なのですが、日本の一般社会の中で、無意味な行為を意味する言葉として使われています。このように聖書の言葉で民衆の中に定着しているものがあります。他にも「狭き門」「洗礼を受ける」などがありますが、それはキリスト教の思想が、人々の中に浸透していくうえで必要なことだと思います。

 私たちも日常の生活の中で仏教的、あるいは神道的な言葉を使います。例えば、「お百度参り」とか「縁」という言葉です。“いゃ~。ここで会うのも何かの縁”というように、何も深く考えないで使ってしまいます。日本人として身にしみついてしまっているものです。

 「縁」という言葉ですが、「縁起」ということで、仏教の根本的な思想からきているものです。釈尊がいったと言われる言葉、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」という思想から生まれて来た教義です。要するに、互いに関わりあい支えあって存在しているのだということです。しかしそれだけではなくて、事物が単独で存在せず、依存して存在しているということは、その事物の本質は「無」ということになります。この世界の存在も、実体として存在しているのではなくて、然るべき原因と条件があって出現しているのであって、本質は無ということです。また、その原因も条件も単独で存在しているわけではないので、「空」ということになります。だから変化をしていくと言うわけです。実体があれば変化しないと言うのです。全てが「空」ということですからしがみつくものがないのです。そういう考えになります。自分が有ると思っても、しがみつく自分など何処にも無いのです。他者との関係性の中にのみ自分がある。自分は自分一人で生きているのではない。他のずべてに生かされて有るのだと、いうことになります。だから事物に執着しないで生きることが勧められ、執着するところに苦しみが起こるというわけです。

 簡単に「縁起」について書きましたが、しかし事物の根底に潜む「空」というのは、人格的な意味合いはないように思います。聖書の教えから見ると、やはり「人は生かされている」と言えます。ただ「縁起」の思想が言うように、原因と条件というものではなくて、人格をもった神様によって生かされていするということです。その神様を根本にして、人はお互いに愛し合うという関係の中で生きることが教えられているのです。だからこそ、死の彼方にも神様との人格的な交わりを想起して、永遠という世界を待ち望む者として、生きるという希望が与えられるのではないかと思います。

 それにしても「ここで会ったのも何かの縁」という表現があるからこそ、昔から人は近所同士、醤油、味噌なども貸し借りしながら、そんな下町の生活が築かれて来たのかも知れません。そんな関係を大切にしたいものですね。でも、最近は、その関係が崩れ、公園で子どもが大きな声を出して遊んでいても、ただ“うるさい”としか聞こえてこない人たちが増えているようです。

 今日は、教会で、ある方々の交わりがなされています。子どもたちの大きな声が二階まで響いています。教会とまったく関係のない人たちではありませんが(教会員ではありませんが)。でも、人と人が繋がる、そんなところとしても使われれば、教会という意味から言えば、意義のあることだと思います。

 聖書の中の言葉も、日常的な、ふとした会話の中で自然に使われていくように、更に定着していけばいいなと思います。それもキリスト教的な思想を含みながら。「縁」という言葉のように、人々の生活に深く関わっていくところで使われていけばと思います。「16%の理論」というのがあるそうですが、16%以上の人々に普及すれば、爆発的に増えていくというものです。そこまでキリスト教が定着すればと思います。日常の中で聖書の言葉が使われる、それはどれだけ文化の中に切り込めるかということでしょう。歴史と数、それが関係するのかも知れません。

投稿者: 日時: 15:37 |

❛気づく❜ということ

 今年の楽天は強い。CS第二ステージへ進んだ。どうして楽天が強くなったのか。様々に言われているが、ともかくも野村監督の采配だと言える。監督の目指す野球は、昔から変わらないそうだが“考える野球”ということのようです。

 例えは、山崎選手、現役の野球選手としては高齢者と言える。しかし、彼に野村監督は、“投手の配球を見ろ、そうしたら以前のようにホームランを量産できる”と言ったそうです。そこで彼は考えた。以前は、バッターボックスに入ってから、投手の配球を考えていたのですが、その後、試合中、ベンチにいる時も常に投手を観察するようにしたと言います。そうすると投手の配球の癖が見えてくるというわけです。

 また、野村監督からこんなことも言われた。“年をとった者がいるということは、他にも何かあるやろう”と。そこで山崎は考えました。それは若い者たちを引っ張っていくということです。若い選手がいい加減なプレーをしていると彼は、選手を呼んで監督の変わりに叱った。時には10分にも及ぶこともあったと言います。“叱る”ということは簡単ではない。叱る以上、自分もいい加減なことはできない。

 これは一人の選手の例ですが、このようなことが一人一人の選手に起これば、当然、自然と強くなるだろう。戦う集団として整えられていく。そのポイントは“気づき”です。山崎選手がいっていますが、“変えることは難しいけれども・・・”と、しかしやってみるのです。できることから試みてみるのです。そういう気づき、きっと変わる。

 礼拝で取り上げたことですが、イエスの二つの譬え話です。その一つに、百匹の羊を持っていた羊飼いが、一匹の羊を見失い、見つけるまで捜し、見つけ出した時は、近所の人たちも呼んで、その喜びを分かち合ったというわけです。もう一つは、銀貨十枚を持っていた女性が、一枚を無くします。灯をつけ、部屋の隅々まではいて捜します。見つけるまで捜します。見つけたら近所の女性たちを呼んで、見つけ出した喜びを分かち合います。

 羊飼いと女が“捜す”ということをしたのは“損をする”と思ったからだ。失って初めてその価値を知るということがあるが、その失ったものを見つけた時の喜び、これは味わった者でなければ分からない。その喜びを、このイエスの譬えは語ろうとしているのです。だから、“貴方は捜しに行きなさい”と人から言われるような話ではない。“損をする”“もったいない”と思えば、誰でも自発的に行動を起こすようなことだ。そこが重要なのだ。

 このイエスの譬え話は、神が人を取り戻した時の喜びを語っているのですが、私たちがその神の喜びに気づくことです。どうして気づくのか、先に書いたように、自分が失ったと思っていた時の、何か大切なもの、それもう一度見つけ出した時の喜び、そんな経験はないだろうか。そんな日常生活のことから、悟ることなのです。それが信仰です。“証しをしてください”と頼まれて、何十年か前の救いの証ししかできない。むろん、それが原点ですが、しかしそれ以後何にもない、というのも寂しい。聖書には、いくらでも私たちに気づかせてくれるものがある。それを掘り起こすことです。掘れば掘るほど恵みの水が湧いてくる。きっと貴方の人生は変わる。

 神の喜びに気づいてほしい。貴方を喜んでいる、その神の喜びに気づいてほしい。その時、人に言われなくても、羊飼いのように、女のように、捜す者の一人となるでしょう。

 波多野清一という哲学者がいっていますが、“宗教とは、本当の他者に出会えるところ”とです。要するに人間を超える存在、超越者と出会うところにおいて、初めて他者に生きることができるということでしょう。本当に他者に生きた人はイエスだけです。それが神の喜びなのです。

投稿者: 日時: 17:48 |

聖書の中の宴会

 古い歌に、「酒たばこ やらぬ宗旨の 耶蘇教は かたぐるしくて あーめんどなり」というのがあります。昔、伝道者が説教の中で使われたりしていましたが、確かに、明治期に日本に伝えられたプロテスタントのキリスト教はピューリタニズムのキリスト教で、“清め”を大切にするものでありました。今では様々な教派が伝えられていますので、すべてがそうではありませんが、しかしおおむね、その伝統は今日まで変わることがないと言っていいと思います。

 ある教会では、信仰を決意して洗礼を受けようとするときには、その人がたばこを吸う習慣があれば、それを止めてからでないと洗礼を受けさせない、という教会もあるようです。“禁煙”が洗礼の条件ではなのいでしょうけれども、なかなか厳しいですね。

 聖書を見てみますと、“禁煙”について書いているところはありまぜんが、“飲酒”について書いているところはあります。例えば、新約聖書のエフェソ書というところの5章18節「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」と書いてあります。元財政担当大臣の中川さんが亡くなられましたが、体を悪くしておられたようで、お酒はほどほどですね。お酒で失敗もされたのですから。

 でも、面白いことに聖書の中には神の国に入れられることをイメージして“宴会に招かれる”と表現されているところがあるのです。新約聖書の22章の最後の晩餐の場面になりますが、30節です。「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」というふうに、キリストの御国でキリストの祝宴に連なるということをイエスは約束してくださっています。あるいは、13章29節で、「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。」
 ここで“宴会に招かれる”と言われているのが神の国に招かれてたいることを意味しているわけですが、詳しい説明は省きますが、神の国を宴会と表現するのは面白いですね。当然、そこでは酒の酌み交わしがなされます。

 どうしてこのような表現がなされるかと言うと、旧約聖書の中の話ですが、昔、ホレブという山で神がイスラエルを選び、契約を結ばれたことを喜んで、神の前で祝宴を開きました。あるいは、ソロモン王は、国を治める知恵を神の願い、それがかなえられたといてうことで、やはりその喜びを祝宴に家臣を招いて喜びを表現しています。神との交わりができたという喜びの味わい方としての“宴会”と言うことでしょうね。

 旧約聖書の預言者イザヤも次のように言っています。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」(55章Ⅰ節~2節)

 葡萄酒を飲み交わす、その喜びをイメージして神にある喜びを語ります。そんな文化の流れの中でイエスは、神の国における報いとか祝福を“宴会への招待”として表現したのでしょう。

 でもどうして人は酒に憧れるのでしょう。その根底には“喜びへの憧れ”というのがあるのかも知れません。イエスは“宴会”そのもの、酒宴そのものについて語っているわけではありません。喜びそのものについて語っているのです。いかなることがあっても変わることのない、失われることのない神にある喜びへと招いているのです。

 たまには親しい者たちと共に酒を酌み交わすのもいいでしょう。愉しいい酒ならば。しかしそれよりももっと神の前の宴会は喜びに待たされているのでしょう。「酒たばこ やらぬ宗旨の 耶蘇教は 罪ゆるされて こころハレルヤ」

投稿者: 日時: 23:48 |

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聖書の言葉(新約 マタイ伝)
7:7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

 人生には様々な節目があります。例えば、“卒業”、これは“終わり”を意味します。しかしそれだけではなくて、ことの始めでもあると言えます。英語で卒業式を(commencememt・コメンスメント)と言うようで、“何かを始める”という意味があるようです。また卒業には、(graduation・グラデュエイション)というのがありますが、これは“次の段階へ移る”という意味があります。上記の聖書の言葉は、私たちを人間として次の段階へと進ましてくれる、そんなことが教えられているように思います。

 7節で“求める”“捜す”“叩く”ことが言われており、文法的には継続を意味している言葉なので、よく自分の願い事を継続して祈り続けるならば、神は与えてくださる、そのような約束の言葉として理解されていますが、しかし、上記の聖書の文脈を見ていただきますとお分かりのように、最後の12節の言葉、ここでは聖書の読み手が、他者に“与える”ということを教えています。その言葉から7節以下の言葉を理解しなければならないかと思うのです。

 最後の12節の言葉、“黄金律”と言われていますが、東洋の考え方とはだいぶん違います。“人からしてほしくないことはするな”と教えますが、イエスは“人からしてほしいこと思うことは人にしろ”と、積極的な人との関わりを教えています。でも、これは“親切の押し売り”を勧めているのではありません。愛に立ってということです。

 実際にしてみれば分かりますように、人間の善意には限界があります。例えば、ある人に定期的に時間を割いて相談にのってあげる。毎週のように電話がかかってきます。しかし、いつも同じことを繰り返してしまいます。言っても言っても分からない、同じことを繰り返します。しまいにこちらのほうがうんざりしてきます。そして“お前、いいかげんにせーよ”“もう勝手にしろ、わしは知らん”という気持ちになってしまいます。そういうことってあるのではないでしょうか。

 コップの水はすぐになくなって底が見えてくるものです。補充をしなければ人に飲ませてあげることはできません。弘法大師が開いたと言われる井戸が今も残っていて、こんこんと水がわき続けています。そんな井戸もありますが、凡人はそうはいきません。

 そのために上記の聖書の7節~11節の言葉が語られているわけです。なんでもほしいものがあれば求め続けると与えられる、ということを言っているのではなくて、人間の父親は自分の子供に必要なものは与えてくれるように、いや、それ以上に神は貴方を愛しているので、貴方に必要なものは与えてくださる。要するに神は“貴方をそれほどに愛しているのです”ということを聖書は言わんとしているのです。その貴方に注がれている神の愛、それを求め続ける、捜し続ける、叩き続ける、そうすれば与えられるというわけです。その愛が私というコップを満たしてくれると、“与え続ける”ということも可能になるということでしょう。

 しかし、今、“コップが満たされる”ということを言いましたが、どうだろう、そんな満足感というのを味わったことがあるだろうか、人はどこかで不足を感じている。だから不平ばかり、道を歩いていると、そんな不平をもらしながら歩いている人がいます。それでは人に与えるものは何もない。物ではないですね。物では人は満足感は得られない。いや、物はあればやはり助かります。でも心がね。それを満たしてくれるのが、やっぱり“愛されている”ということでしょうね。

 立派な人間になるということではなくて、人として豊かに生きると言うことでしょうね。

投稿者: 日時: 13:24 |