聖書の中の宴会

 古い歌に、「酒たばこ やらぬ宗旨の 耶蘇教は かたぐるしくて あーめんどなり」というのがあります。昔、伝道者が説教の中で使われたりしていましたが、確かに、明治期に日本に伝えられたプロテスタントのキリスト教はピューリタニズムのキリスト教で、“清め”を大切にするものでありました。今では様々な教派が伝えられていますので、すべてがそうではありませんが、しかしおおむね、その伝統は今日まで変わることがないと言っていいと思います。

 ある教会では、信仰を決意して洗礼を受けようとするときには、その人がたばこを吸う習慣があれば、それを止めてからでないと洗礼を受けさせない、という教会もあるようです。“禁煙”が洗礼の条件ではなのいでしょうけれども、なかなか厳しいですね。

 聖書を見てみますと、“禁煙”について書いているところはありまぜんが、“飲酒”について書いているところはあります。例えば、新約聖書のエフェソ書というところの5章18節「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」と書いてあります。元財政担当大臣の中川さんが亡くなられましたが、体を悪くしておられたようで、お酒はほどほどですね。お酒で失敗もされたのですから。

 でも、面白いことに聖書の中には神の国に入れられることをイメージして“宴会に招かれる”と表現されているところがあるのです。新約聖書の22章の最後の晩餐の場面になりますが、30節です。「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」というふうに、キリストの御国でキリストの祝宴に連なるということをイエスは約束してくださっています。あるいは、13章29節で、「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。」
 ここで“宴会に招かれる”と言われているのが神の国に招かれてたいることを意味しているわけですが、詳しい説明は省きますが、神の国を宴会と表現するのは面白いですね。当然、そこでは酒の酌み交わしがなされます。

 どうしてこのような表現がなされるかと言うと、旧約聖書の中の話ですが、昔、ホレブという山で神がイスラエルを選び、契約を結ばれたことを喜んで、神の前で祝宴を開きました。あるいは、ソロモン王は、国を治める知恵を神の願い、それがかなえられたといてうことで、やはりその喜びを祝宴に家臣を招いて喜びを表現しています。神との交わりができたという喜びの味わい方としての“宴会”と言うことでしょうね。

 旧約聖書の預言者イザヤも次のように言っています。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」(55章Ⅰ節~2節)

 葡萄酒を飲み交わす、その喜びをイメージして神にある喜びを語ります。そんな文化の流れの中でイエスは、神の国における報いとか祝福を“宴会への招待”として表現したのでしょう。

 でもどうして人は酒に憧れるのでしょう。その根底には“喜びへの憧れ”というのがあるのかも知れません。イエスは“宴会”そのもの、酒宴そのものについて語っているわけではありません。喜びそのものについて語っているのです。いかなることがあっても変わることのない、失われることのない神にある喜びへと招いているのです。

 たまには親しい者たちと共に酒を酌み交わすのもいいでしょう。愉しいい酒ならば。しかしそれよりももっと神の前の宴会は喜びに待たされているのでしょう。「酒たばこ やらぬ宗旨の 耶蘇教は 罪ゆるされて こころハレルヤ」

投稿者: 日時: 2009年10月06日(火) 23:48