2009年09月のアーカイブ

教会に無断で住み着いた野良猫

 最近、教会に野良猫が住み着いた。もともと我が家に猫はいるのだが、それとは別に無断で住み着いたのだ。今年のイースターの朝に17~8年ほど一緒に暮らしてきた犬が老衰で死んだ。子犬の時に子供が拾ってきたのだ。小型犬ながら、頼みもしないのだが、よく番犬の役割を果たした。それにもう一匹犬がいる。この犬は数年前に、これまた子供が拾ってきた、というか、大型犬で引っ張ってきたのだ。引越しのために置き去りにされたいたのか、何日もフェンスに繋がれて放っておかれたので、かわいそうだというのだ。この犬は番犬の役割をちっとも果たさない。ただ一日ゴロゴロしているだけだ。

 教会の周りには何匹かの野良猫と思われるものたちがいる。先程の小型犬が健在の時は、野良猫は教会の敷地内に入ることはなかった。近付くと吠えるのである。しかしこの犬が死んでからは、一匹の野良猫が教会に近付くようになった。大型犬が吠えないからだ。いや、今では吠えるどころか、子供が犬に餌をあげると、猫と一緒に食べているのである。犬は自分の餌を猫が食べても怒らない。不思議な光景だ。私が近付くと猫は逃げるのではなく、犬小屋の中に隠れるのだ。それを犬は黙って見ている。更に私が近付き犬小屋をコンといわせると、初めて逃げる。逃げてもすぐにまた舞い戻ってくる。

 この日曜日の夜に、久々に何人かの友人に会った。夕食を共にしたのだが、その店のトイレに張り紙がしていた。教訓めいた言葉がそこに並んでいたが、その中に“人に見下げられたらそのままにしておけ”というような言葉があった。この犬は猫に馬鹿にされていたのかもしれないが、猫にとっては餌とねぐらのある安心できるところとなっているのだろう。

 いつだったか忘れたのだが、読売新聞にこんなことが書いてあった。幼稚園で劇をすることになれました。何の劇かというと“桃太郎”をすることになりました。役柄を決めようとするのですが、みんなは桃太郎をしたいというのです。それでこり桃太郎の話は“桃太郎がおともの桃太郎を連れて桃太郎退治にいった”というはなしになったというわけです。笑い話なのですが、でも現実にありそうな話だ。

 聖書の中に“謙虚”“謙遜”“つつしむ”“ひれ伏す”そんなたぐいの言葉が出てくる。人はそれを他者に要求することはよくあるが自ら考えることはすくないのかも知れない。私は仕事の関係で様々な人と関わりますが、欧米から来た方の中に、人を傷つけておいて絶対にあやまらない人がいる。ある人は民族性の違いかも? という人もいるが、どの国も人を傷つけたら“さっきはごめんなさいね”と一言いうのが自然な人の道だと思う。そこは変わらないと思う。まして私たちは神の道を説く者たちなのだ。自分をどのへんに位置づけしているのだろうか。

 役者が“味のある役者だ”と言われるようになるまでには、いろんな役柄をこなしていく中で、育てられていくのだろうと思います。桃太郎ばかりしていたのでは役者としての深みが生まれないかもしれない。猿も演じ、キジも演じる。さらには敵役の鬼も演じてみる。様々な経験を経て一人の役者が育つのだろう。お山の大将であり続けたい、そこに留まり続けたい、人からそのように持ち上げられていると機嫌がいいというのは、正直いってハタ迷惑である。

 確かに一つの物語を作り上げていくということは難しいことである。我が家の犬も自分の好きな食べ物だと、やはりその時は猫に吠えているのである。

 神の救いの物語、イエスという方の十字架の上に挙げられるという尊い犠牲の上に成り立っている。なんと感謝なことだろうか。こんなことは本当に人間の間ではあり得ないようなことである。いわば我が家に無断で住み着いた猫、それが私たちに似ているのかも知れない。でも、むイエスという方は絶対に私たちに吠えることはない。そこで野良猫のようではなくて、本当に神の前にも、人の前にも、ちっょと自分を省みることをしてもいいのではないかと思います。

 話は変わりますが、鳩山政権、与党連合会議というのができたそうですが、なかなか共存のかじ取りは難しいでしょうね。

投稿者: 日時: 08:54 |

兆しを読み解く

 下記のカギ括弧の文章は9月13日の週報に書いたものです。
「“レッドクリフ”という映画を見ました。中国の後漢時代の末になりますが、いわゆる“赤壁の戦い”と言われるものを描いた物語です。この戦いによって中国を三分する形勢が定まります。侵略を続けていた曹操軍と劉備軍・孫権軍の連合軍が長江(揚子江)を挟んで対じします。圧倒的に強さを誇っていた曹操軍ですが、劉備の軍師・諸葛孔明が、地形や天候の変化から、真夜中になると風向きが敵に向いて吹き始めると読み、その夜に戦いを挑み火攻めで曹操軍の水軍を打ち破り勝利を手にします。“兆しを読む”ということは重要なことで、人はその能力を持っています。」
CAM_0060.JPG
 秋の天候は変わりやすいと言われ、それに男心や女心と重ね合わせてよく言われることです。実際そうなのかどうかは知りませんが、おそらく偏見というものでしょう。このようなことは個人差がありますから。しかし“心変わり”するときには、その前兆というものがあります。それを見逃さないで対応していかなければならないのです。

 今、家庭集会で“出エジプト記”を学んでいます。なかなか面白い聖書だと思いますが、ちょうど“十の災害”のところなのですが、エジプト全土を“ブヨ”が襲うのです。

 ブヨというのは、地方によってはブトとかブユとかと呼ばれているようで、ハエより若干小さく、体長3~5mm程度の吸血性の虫です。幼虫は小川や渓流で育ち、綺麗な水辺を好むため、蚊と違って都会ではあまり見かけません。ですからキャンプとか釣りに行って刺されたりするのです。発生するのが6~7月と釣りのシーズンと重なります。ブヨに刺されると猛烈に痒いだけでなく、人によっては激しい痛みを生じたりいつまでも腫れが残ったります。リンパ管炎やリンパ節炎を併発し、歩行困難になるというような症状が出ることもありますので、アレルギー症の人は特に注意しなければいけません。(“魚と遊ぼう!海釣り道場”より)
 
 そのブヨが、土の塵から造られるのである。ここがなかなか面白い。創世記3章19節によると「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」と言われています。
詩編104編26節でも「御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。」と歌われています。
このように人間は、土の塵から造られたと語られています。

 更に、ヨブ記17章16節「それはことごとく陰府に落ちた。すべては塵の上に横たわっている。」
詩編22編30節でも「命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得」
このように“塵”というのは陰府をも表しているのです。

 何かエジプトの将来を表しているように思われます。エジプトの魔術師は「これは神の指の働きでこざいます」と、神を認めているのですが、ファラオは、更に心を頑なにして、モーセの言葉を聞こうとはしなかったのです。そしてエジプトから“ブヨ”がいなくなったとは書いていません。このことが日常化としたとも言えます。

 人は塵から生まれて塵に帰ると言われていますが、ただ塵にかえるのではない、聖書は、“イスラエル”という民の営みを通して人間の罪というものを描いています。その罪の果てに人間は朽ちていくというわけですが、この後、エジプトもそのように滅びていきます。すべて造られたものは滅びていく。

だからこそ、すべてのものの源、命の源である神に立ち返らなければならないのです。その知らせが自然の激変ということを通してファラオに知らされたのです。素直に、そして謙虚にその兆しを読み取らなかったのです。私たちは聖書をよく読み、神のささやきに敏感にならなければならない。

投稿者: 日時: 15:05 |

見る目

 “金子みすず”の詩の代表的なものの中に入りますが下記のものがあります。

「お魚」

   海の魚はかはいそう

   お米は人に作られる、
   牛は牧場で飼はれてる、
   鯉もお池で麩を貰ふ。

   けれども海のお魚は
   なんにも世話にならないし
   いたづら一つしないのに
   かうして私に食べられる。

   ほんとに魚はかはいさう。


 「大漁」

   朝焼け小焼だ
   大漁だ
   大羽鰮(いわし)の
   大漁だ。

   浜は祭りの
   ようだけど
   海のなかでは
   何万の
   鰮のとむらい
   するだろう

 他にもここにあげたいものはありますが、これぐらいにしときたいのですが、これらの詩に見られるように、みすずの目は人が気がつかないようなところ、人の目には隠されているようなところに向けられています。読んでいて何かハッとさせられるような詩です。

 イエスのエルサレムという町に対して深い愛をもって語った言葉に「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(ルカ13章34節)というのがあります。ここで注目したい言葉が「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」と言われているものです。

 ここでエルサレムの市民は、自分たちに遣わされた預言者たちを“石で打ち殺す”と言われています。いわゆる“石打ち刑”ということですが、古代においてどのような時に行われたかと言うと、例えば、レビ記24章13節「主はモーセに仰せになった。冒涜した男を宿営の外に連れ出し、冒涜の言葉を聞いた者全員が手を男の頭に置いてから、共同体全体が彼を石で打ち殺す。あなたはイスラエルの人々に告げなさい。神を冒涜する者はだれでも、その罪を負う。」とあり、神を冒涜する者は石で打たれた。
また、民数記15章32節以下「イスラエルの人々が荒れ野にいたときのこと、ある男が安息日に薪を拾い集めているところを見つけられた。見つけた人々は、彼をモーセとアロンおよび共同体全体のもとに連れて来たが、どうすべきか、示しが与えられていなかったので、留置しておいた。主はモーセに言われた。「その男は必ず死刑に処せられる。共同体全体が宿営の外で彼を石で打ち殺さねばならない。」。共同体全体は、主がモーセに命じられたとおり、彼を宿営の外に連れ出して石で打ち殺したので、彼は死んだ。」と言われているように、安息日を汚すと石で打たれたようです。

 これらの記述からしますと、エルサレムの市民が神に遣わされた預言者を石で打ったということは、彼らは自分たちは“正しいのだ”“正しいのだ”という思いが強かったでしょう。信じて疑わなかったでしょう。しかし、皮肉なことに、それが神に対する反逆となっていたのです。

 今回の選挙は“政権選択”と民主党は宣伝をし大勝利を得た。いわば振り子が振りきれてしまったような状態である。いつの日かまたその揺り戻しが来るかもしれないが、“選ぶ”ということの責任ということを思わされます。何かのムードではなく、感情でもなく、保身でもなく、正しいものを見る目、隠されているものが見えてくるような洞察力をもちたいものです。

投稿者: 日時: 22:42 |