❛縁❜ということ

 聖書の中の言葉で、例えば、「豚に真珠」はマタイ福音書7章6節に出てくる言葉なのですが、日本の一般社会の中で、無意味な行為を意味する言葉として使われています。このように聖書の言葉で民衆の中に定着しているものがあります。他にも「狭き門」「洗礼を受ける」などがありますが、それはキリスト教の思想が、人々の中に浸透していくうえで必要なことだと思います。

 私たちも日常の生活の中で仏教的、あるいは神道的な言葉を使います。例えば、「お百度参り」とか「縁」という言葉です。“いゃ~。ここで会うのも何かの縁”というように、何も深く考えないで使ってしまいます。日本人として身にしみついてしまっているものです。

 「縁」という言葉ですが、「縁起」ということで、仏教の根本的な思想からきているものです。釈尊がいったと言われる言葉、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」という思想から生まれて来た教義です。要するに、互いに関わりあい支えあって存在しているのだということです。しかしそれだけではなくて、事物が単独で存在せず、依存して存在しているということは、その事物の本質は「無」ということになります。この世界の存在も、実体として存在しているのではなくて、然るべき原因と条件があって出現しているのであって、本質は無ということです。また、その原因も条件も単独で存在しているわけではないので、「空」ということになります。だから変化をしていくと言うわけです。実体があれば変化しないと言うのです。全てが「空」ということですからしがみつくものがないのです。そういう考えになります。自分が有ると思っても、しがみつく自分など何処にも無いのです。他者との関係性の中にのみ自分がある。自分は自分一人で生きているのではない。他のずべてに生かされて有るのだと、いうことになります。だから事物に執着しないで生きることが勧められ、執着するところに苦しみが起こるというわけです。

 簡単に「縁起」について書きましたが、しかし事物の根底に潜む「空」というのは、人格的な意味合いはないように思います。聖書の教えから見ると、やはり「人は生かされている」と言えます。ただ「縁起」の思想が言うように、原因と条件というものではなくて、人格をもった神様によって生かされていするということです。その神様を根本にして、人はお互いに愛し合うという関係の中で生きることが教えられているのです。だからこそ、死の彼方にも神様との人格的な交わりを想起して、永遠という世界を待ち望む者として、生きるという希望が与えられるのではないかと思います。

 それにしても「ここで会ったのも何かの縁」という表現があるからこそ、昔から人は近所同士、醤油、味噌なども貸し借りしながら、そんな下町の生活が築かれて来たのかも知れません。そんな関係を大切にしたいものですね。でも、最近は、その関係が崩れ、公園で子どもが大きな声を出して遊んでいても、ただ“うるさい”としか聞こえてこない人たちが増えているようです。

 今日は、教会で、ある方々の交わりがなされています。子どもたちの大きな声が二階まで響いています。教会とまったく関係のない人たちではありませんが(教会員ではありませんが)。でも、人と人が繋がる、そんなところとしても使われれば、教会という意味から言えば、意義のあることだと思います。

 聖書の中の言葉も、日常的な、ふとした会話の中で自然に使われていくように、更に定着していけばいいなと思います。それもキリスト教的な思想を含みながら。「縁」という言葉のように、人々の生活に深く関わっていくところで使われていけばと思います。「16%の理論」というのがあるそうですが、16%以上の人々に普及すれば、爆発的に増えていくというものです。そこまでキリスト教が定着すればと思います。日常の中で聖書の言葉が使われる、それはどれだけ文化の中に切り込めるかということでしょう。歴史と数、それが関係するのかも知れません。

投稿者: 日時: 2009年10月26日(月) 15:37