次の段階へ

聖書の言葉(新約 マタイ伝)
7:7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

 人生には様々な節目があります。例えば、“卒業”、これは“終わり”を意味します。しかしそれだけではなくて、ことの始めでもあると言えます。英語で卒業式を(commencememt・コメンスメント)と言うようで、“何かを始める”という意味があるようです。また卒業には、(graduation・グラデュエイション)というのがありますが、これは“次の段階へ移る”という意味があります。上記の聖書の言葉は、私たちを人間として次の段階へと進ましてくれる、そんなことが教えられているように思います。

 7節で“求める”“捜す”“叩く”ことが言われており、文法的には継続を意味している言葉なので、よく自分の願い事を継続して祈り続けるならば、神は与えてくださる、そのような約束の言葉として理解されていますが、しかし、上記の聖書の文脈を見ていただきますとお分かりのように、最後の12節の言葉、ここでは聖書の読み手が、他者に“与える”ということを教えています。その言葉から7節以下の言葉を理解しなければならないかと思うのです。

 最後の12節の言葉、“黄金律”と言われていますが、東洋の考え方とはだいぶん違います。“人からしてほしくないことはするな”と教えますが、イエスは“人からしてほしいこと思うことは人にしろ”と、積極的な人との関わりを教えています。でも、これは“親切の押し売り”を勧めているのではありません。愛に立ってということです。

 実際にしてみれば分かりますように、人間の善意には限界があります。例えば、ある人に定期的に時間を割いて相談にのってあげる。毎週のように電話がかかってきます。しかし、いつも同じことを繰り返してしまいます。言っても言っても分からない、同じことを繰り返します。しまいにこちらのほうがうんざりしてきます。そして“お前、いいかげんにせーよ”“もう勝手にしろ、わしは知らん”という気持ちになってしまいます。そういうことってあるのではないでしょうか。

 コップの水はすぐになくなって底が見えてくるものです。補充をしなければ人に飲ませてあげることはできません。弘法大師が開いたと言われる井戸が今も残っていて、こんこんと水がわき続けています。そんな井戸もありますが、凡人はそうはいきません。

 そのために上記の聖書の7節~11節の言葉が語られているわけです。なんでもほしいものがあれば求め続けると与えられる、ということを言っているのではなくて、人間の父親は自分の子供に必要なものは与えてくれるように、いや、それ以上に神は貴方を愛しているので、貴方に必要なものは与えてくださる。要するに神は“貴方をそれほどに愛しているのです”ということを聖書は言わんとしているのです。その貴方に注がれている神の愛、それを求め続ける、捜し続ける、叩き続ける、そうすれば与えられるというわけです。その愛が私というコップを満たしてくれると、“与え続ける”ということも可能になるということでしょう。

 しかし、今、“コップが満たされる”ということを言いましたが、どうだろう、そんな満足感というのを味わったことがあるだろうか、人はどこかで不足を感じている。だから不平ばかり、道を歩いていると、そんな不平をもらしながら歩いている人がいます。それでは人に与えるものは何もない。物ではないですね。物では人は満足感は得られない。いや、物はあればやはり助かります。でも心がね。それを満たしてくれるのが、やっぱり“愛されている”ということでしょうね。

 立派な人間になるということではなくて、人として豊かに生きると言うことでしょうね。

投稿者: 日時: 2009年10月02日(金) 13:24