❛気づく❜ということ

 今年の楽天は強い。CS第二ステージへ進んだ。どうして楽天が強くなったのか。様々に言われているが、ともかくも野村監督の采配だと言える。監督の目指す野球は、昔から変わらないそうだが“考える野球”ということのようです。

 例えは、山崎選手、現役の野球選手としては高齢者と言える。しかし、彼に野村監督は、“投手の配球を見ろ、そうしたら以前のようにホームランを量産できる”と言ったそうです。そこで彼は考えた。以前は、バッターボックスに入ってから、投手の配球を考えていたのですが、その後、試合中、ベンチにいる時も常に投手を観察するようにしたと言います。そうすると投手の配球の癖が見えてくるというわけです。

 また、野村監督からこんなことも言われた。“年をとった者がいるということは、他にも何かあるやろう”と。そこで山崎は考えました。それは若い者たちを引っ張っていくということです。若い選手がいい加減なプレーをしていると彼は、選手を呼んで監督の変わりに叱った。時には10分にも及ぶこともあったと言います。“叱る”ということは簡単ではない。叱る以上、自分もいい加減なことはできない。

 これは一人の選手の例ですが、このようなことが一人一人の選手に起これば、当然、自然と強くなるだろう。戦う集団として整えられていく。そのポイントは“気づき”です。山崎選手がいっていますが、“変えることは難しいけれども・・・”と、しかしやってみるのです。できることから試みてみるのです。そういう気づき、きっと変わる。

 礼拝で取り上げたことですが、イエスの二つの譬え話です。その一つに、百匹の羊を持っていた羊飼いが、一匹の羊を見失い、見つけるまで捜し、見つけ出した時は、近所の人たちも呼んで、その喜びを分かち合ったというわけです。もう一つは、銀貨十枚を持っていた女性が、一枚を無くします。灯をつけ、部屋の隅々まではいて捜します。見つけるまで捜します。見つけたら近所の女性たちを呼んで、見つけ出した喜びを分かち合います。

 羊飼いと女が“捜す”ということをしたのは“損をする”と思ったからだ。失って初めてその価値を知るということがあるが、その失ったものを見つけた時の喜び、これは味わった者でなければ分からない。その喜びを、このイエスの譬えは語ろうとしているのです。だから、“貴方は捜しに行きなさい”と人から言われるような話ではない。“損をする”“もったいない”と思えば、誰でも自発的に行動を起こすようなことだ。そこが重要なのだ。

 このイエスの譬え話は、神が人を取り戻した時の喜びを語っているのですが、私たちがその神の喜びに気づくことです。どうして気づくのか、先に書いたように、自分が失ったと思っていた時の、何か大切なもの、それもう一度見つけ出した時の喜び、そんな経験はないだろうか。そんな日常生活のことから、悟ることなのです。それが信仰です。“証しをしてください”と頼まれて、何十年か前の救いの証ししかできない。むろん、それが原点ですが、しかしそれ以後何にもない、というのも寂しい。聖書には、いくらでも私たちに気づかせてくれるものがある。それを掘り起こすことです。掘れば掘るほど恵みの水が湧いてくる。きっと貴方の人生は変わる。

 神の喜びに気づいてほしい。貴方を喜んでいる、その神の喜びに気づいてほしい。その時、人に言われなくても、羊飼いのように、女のように、捜す者の一人となるでしょう。

 波多野清一という哲学者がいっていますが、“宗教とは、本当の他者に出会えるところ”とです。要するに人間を超える存在、超越者と出会うところにおいて、初めて他者に生きることができるということでしょう。本当に他者に生きた人はイエスだけです。それが神の喜びなのです。

投稿者: 日時: 2009年10月20日(火) 17:48