2009年11月のアーカイブ

クリスマスの飾り

 今日から待降節(アドベント)というシーズンに入ります。昨夜、近所を歩いていると綺麗にネオンで飾っていた家もありました。見ていると何となく“クリスマスなんだなぁ~”という気分にもなるでしょう。以前でしたら、繁華街ではクリスマスキャロルも流れてクリスマスセールでにぎわうところですが、今は少し静かになっています。
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“教会も”という言い方はおかしいですが、クリスマスの飾りつけがなされて礼拝が守られています。写真のツリーは生木を使っていますが、飾っているものは、特に金糸銀糸はドイツ製です。昨年か、中高性が片付けてくれた時に“もつれた”ということでだいぶん捨てられたのです。それでお店などに聞いてみたのですが、どうも思っているものはないようで、シスターに頼んでドイツから送ってもらうことにしました。それは来年のクリスマスに飾れるかな、と思います。

この“金糸・銀糸”というのは、聖家族がヘロデ王の手から逃れるたろにエジプトに逃げるというくだりがありますが、追ってきた兵隊が徐々に聖家族に近付いてくるときに、洞窟の中に隠れます。その時に動機つにいた蜘蛛が糸を洞窟の入口に張りめぐらせて聖家族を守るという前節にもとづいていて、その蜘蛛の糸を表しているのです。小さくて人からも余り愛されない蜘蛛によってイエスたちは守られました。
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同じく、上の写真ですが、クリスマスの家畜小屋での風景をかたどった人形です。何十年か前のものですが、博士たちや羊飼いたちがイエスの誕生を喜び祝っています。神の御子の誕生なのに、家畜の糞の匂いがただようようなところで生れました。それを祝っている羊飼いも貧しく、夜、野宿をして羊の番をしていた人たちです。また遠くから来た博士たちはユダヤ人ではなく、当時、ユダヤの人々が軽蔑していた異邦人でした。そのような人たちによって初めてのクリスマスはお祝いされました。

 そこに共通してあるのは“小さい・貧しい”というような言葉が浮かんでくるようなことです。その人たちへの光としてイエスはこの世に来られました。そのクリスマスの意味を考えながら、この時を過ごしたいものですね。私たちが少しでも他者の光になれたらなんとい素晴らしいことでしょう。それこそ、クリスマスのネオンではないですが、暗闇の中の輝きとなるのではないでしょうか。

投稿者: 日時: 17:55 |

心を大切に

 最近は、亡くなられる方がこのⅠ丁目でも多いような気がします。今日は(11月20日)、同時に二件の葬儀がありまして、自治会の役員は手分けして出席しました。私は自治会の副会長をして二年目なのですが、今年、葬儀の出席は、秋から冬にかけて多いと感じます。気温の急激な変化のためでしょうか。

ちなみに今日、私が出席した葬儀は、浄土真宗・本願寺派のことでした。様々な宗派の葬儀に出ますが、読経聞いたり、葬儀の様式を見たりして、意味するところは分かりませんが、その違いというものを感じます。浄土真宗の葬儀の特徴として、蓮如上人の“白骨の御文章”というのが必ず読まれています。これは人間のはかなさを説いたものです。

その文章を簡単にまとめてみますと、“人はいくら願ったとしても、万歳まで生きることはできず、朝、紅顔であったとしても、夕べには白骨となる身だ。今の形をそのままとどめることは不可能で、だれが先に死ぬか分からず、年とは関係がない。そして親族が集まって葬儀をなして悲しみ、野辺に送り、火葬して、後に残るのは白骨のみ”ということで信仰の必要性を説くわけです。

これは、500年ほど前の文章になりますが、人の営みは、生活環境が大きく変わったとしてもその本質は変わりません。“形あるもの必ず滅する”ということでしょう。しかし、人と言うのは本当に悲しい存在だと思いますが、外側の“形”に捉われてしまいます。その形をとどめておきたいというだけではなくて、もっと大きなもの、もっと立派なもの、上を目指すのはいいのでしょうけれども、しかし、いつもそれができるとは限らない。そんなところで一喜一憂してしまいます。

人間のはかなさを歌ったものは、聖書にもありまして、例えば、旧約聖書にある詩編90編の一部ですが、次のように歌われています。

「山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。あなたは人を塵に返し/『人の子よ、帰れ』と仰せになります。千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ/朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい/夕べにはしおれ、枯れて行きます。あなたの怒りにわたしたちは絶え入り/あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしたちの罪を御前に/隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り/人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。・・・・」

人の命は、詩編が歌っているように“70年”あるいは“80年”、まあこんなものでしょう。とにかく限られた命、いや、限られた命だからこそ“いかに生きるのか”ということが大切なような気がします。その生きていくうえで、聖書は“心を大切にする”ことを勧めます。では“心を大切にする”とはどういうことなのか。

聖書は、旧約聖書と新約聖書を貫いて、神の特質として記されているのが“神は心を知る方”ということです。何のために心を知るのか。人を裁くためでも、監視するためでもない。人がよりよく生きるためです。

 人は目に見えるものに捉われ、また執着する。しかしその目に見えるもの、肉体を含めて全てのものは滅する、過ぎ去っていく。そして、もし、そこに心があったら、心はどうなるのか・・・・。だから聖書の神は、永遠に存在している神の心と通じるようにと勧めている。その神と交わりながら生きるところに、真実な人の歩みが生れてくると教えています。そして永遠へとつながっていくのです。

投稿者: 日時: 22:49 |

季節の移り動くときに

 ある雑誌に次のようなことを、ある歌人が書いていました。日本人は季節に対する感覚は敏感なものがありますが、それは暦にも見られます。旧暦は、月ごとに正節と中気に分けています。

Ⅰ月 正節 立春     7月 正  立秋
    中気 雨水          中  処暑
2月 正  啓蟄     8月 正  白露
    中  春分          中  秋分
3月 正  清明     9月 正  寒露
    中  穀雨          中  霜降
4月 正  立夏     10月 正  立冬
    中  小満          中  小雪
5月 正  芒種     11月 正  大雪
    中  夏至          中  冬至
6月 正  小暑     12月 正  小寒
    中  大暑          中  大寒

以上が旧暦なのですが、これを見ますと中国の暦そのままを使用していると言うのです。その理由は、中国は麦作が中心で、穀物に関係する言葉が多いと言うわけです。例えば、穀雨と芒種が晩春と中夏にあるということ、それに当たるものが秋にない。それに晩秋の寒露、霜降なども麦播きと関わるというわけです。それに稲作と深い関係がある梅雨を連想させる言葉が無いというわけです。

そこで問題になるのが、じゃあどうして中国の暦をそのまま使ったのか、日本の季節ともずれているだろうに・・・、という疑問が出てきます。それに対して、暦は暦法で、天法であり王法であると言うわけです。この法を換えれば天地自然の運行が乱れ、農作牧畜がうまくいかず、民の間に疫病がはやる、だから従わなければならないと信じたというわけです。むろん迷信であるが、“あききぬと/めにはさやかに/見えねども/風のおとにぞ/おどろかれぬる”という歌に見られるように、立秋と言えば、どんなに暑くても、秋風のおとずれを感じなければならない、そういう宮廷歌人の様子を見て取っていて面白いわけですが。

更に、歌人は、折口信夫の“まれびと神”への信仰を持ち出します。これは山や海の彼方から民に稔りを毎年もたらす神で、その神の託宣として受けためたと見ているわけてだす。そのようにして外来の文化を受け入れて行ったというわけです。その文化の重要な一つが王法であり、天法である暦法です。暦法とともに花を愛で、月を賞する習いも伝わったわけです。

このような話からそこに見えてくる日本人というのは、中国から伝わってきた暦を“まれひと神”の託宣としてとらえ、日本の季節に従って変えることなくそのまま使い、その暦の営みの中で自然を味わい、自然と共に生き、自然の中に神を見てきました。

海の彼方からキリスト教が伝えられ、聖書が伝えられました。その聖書は神からの託宣として民に語られました。そこで語られたことは、神は世界を創り、暦を創り、季節を支配し、稔りををもたらし、人間を養っておられるということです。そしてその神との関係の中で自分をわきまえて生きることを求めておられるのです。すなわち人は生かされているということです。この思想は自然の中に生きて来た日本人にも十分に理解でき、まさに天法として受け止めろることができるものだと思います。しかし、聖書は、人間が自然を神とし、その延長線上にあるのだが、富をも神として、それがあたかも人生の目的であるかのような生き方をすることを戒めています。

“自らを知れ”ということですが、時に日本人が恐れて来た自然の営み、それへの畏敬に留まらず、その背後におられる創造の神との関係の中で自らを知ることが大切で、いや、そうでないと本当の意味で自分を知ることはできないのではないか。

 季節が移り動くの時に、人生を考えてみてはいかがでしょう。私はキリスト教の牧師ですが、仏教にも少し興味もあって、ときおり鈴木大拙の本などを読んだりしますが、是非、聖書をじっくり読んでみてください。単なる西洋の宗教に留まるものではないことがお分かりだと思います。

投稿者: 日時: 23:43 |