2009年06月のアーカイブ

健康だけがすべてではない

 最近は、テレビを見ていると健康器具の販売が多いように思います。お腹の脂肪や腕の脂肪をとる、振動するベルトとか、腰を引き締めると言われる馬のように乗って、左右前後に揺れる機械とか、色々とあるようです。

 それだけではなくて、伝統芸能すらも健康という視点から見直されています。例えば“日舞”というのは、聞くだけでも敷居が高いと感じますが、浴衣という気軽さで踊れ、普段余り使わない深層の筋肉も動かすと言う事で、フィットネスとしても人気があるようです。しかしみっちり踊りの基本は教えるようです。また“笑い”は健康にいいということで“落語”も人気があります。もともと根強いファンがあるのですが、あちらこちらで小さなライブも最近はあるそうです。更に面白いのは、“おふくろの味”においても書きましたが、お経に節をつけて歌うというか、読むというか、仏教特有の“声明”といわれるものも、バーなどで僧侶たちによるライブもあるようで、ネットで調べてその日には若者たちも集まってくるといいます。静に聞いていると心が安らぐということのようです。日本人のDNAの中に組み込まれているのか、そこに作用するのか、心の健康という視点からも見直されているようです。

 私も最近は何となく右膝に軽い痛みを感じることがあるのですが、恐らく若い頃に柔道をしていまして、その時に膝を痛めて、曲がらなくなったことがあり、当時、実家のトイレが和式だったので困った事を覚えていますが、その時のが年を重ねる中で出て来たのかな、と思ったりしています。健康であるということは、大事だし、いつまでも元気でいたいと願います。特に“寝たきり”にはなりたくないと誰しも思うでしょう。高齢者が増える中で、健康に注目が集まるのかもしれません。

 しかし、とは言っても、自分の願通りにいかないこともあるわけです。では、健康を損なう、そこに意味がないのだろうかと思います。マイナスと思われることに意味はないのだろうか。確かに人は好まないが。だが、そこにも意味を見出すことが重要ではないかと思います。いつまでも右肩上がりではおれないし、現状維持も難しくなってくることもあるのですから。

 いや、体力だけではありません。心も硬直してくることがあります。旧約聖書のヨブ記というところには「日を重ねれば賢くなるというのではなく/老人になればふさわしい分別ができるのでもない。」と書いてありまして、人の言葉が聞けない、ということも起こります。

 しかし悪いことばかりでもありません。旧約聖書のレビ記というところには「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」と書いてあります。神は一人一人を造り、命の日々を加えておられるのです。心身の衰えも神なしにあるのではありません。長い人生の背後には神がおられ、生かしておられる神のご意志があるのです。

 ですから神は、「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
46:4 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ書)と約束して下さっているのです。神が最後まで担って下さるというわけですが、このように神が最終的に私たちの人生に意味を与え、根拠を与えてくれるわけです。誰一人として自分で生まれ死んでゆく者はいないのです。神が私たちをこの地上に置かれたのです。

 だとしますと、元気な時だけに意味があるのではなくて、衰えた時にも意味が有り希望があるのです。死んでしまえば終わり、ということではなくて、私を造って下さった神のもとに帰るからです。こんな望みを持って、日々、新しい朝を迎えて、一日を過ごさせていただき、夕べには、すべてを神に委ねて眠りに着くのです。

投稿者: 日時: 16:47 |

おふくろの味

 今日は独りで昼食をとりました。家内は超教派の女性の集いのスタッフ会に出かけ、子どもたちも仕事や学校へでかけ、私一人の昼食であるが、特に珍しいということもない。だいたい昼食は自分で用意することが多い。月曜日は基本的に休みなのだが、月2回ぐらいは教会関係の用事で出ているので外で食事をとることになる。今日は個人的な用事で出かけるつもりだったのだが、朝に雨が降っていたので中止にした。昼前から晴れた来たので出かけていればよかったと後悔しているが、しかし久し振りのゆったりした月曜日になった(と言ってこれを書いているのだが)。そしてゆっくりと昼食をとった。冷蔵庫に何もないので、パンに色々と乗せてピザ風にして食べた。しかしお昼にパンを食べるというのは、お昼はだいたい麺類が多いので、何となく落ち着かない気分である。

 私は上滑りなのであるが、少し仏教に興味があって鈴木大拙の本を読むことがあるのだが、最近、仏教周辺に興味を持つ人々が、特に若い人たちが増えてきているような気がするのだが。仏教には“声明”というのがある。お経を節をつけて読むのだが、千年以上の歴史がある。キリスト教で言えば、いわば“グレゴリオ聖歌”というところだろうか。ある関西の僧侶たちの声明のグループがバーでライブをやっていると言う。月一度のようだが、その店の常連が増えたという。ネットで調べてわざわざその日に若者がやってくるという。聞き終えると何かホッとする、頃の静けさが与えられるという女性もおられるようで、宗教抜きで楽しめるというわけである。

 最近、人気なのは声明だけでなく“雅楽”もそのようである。声明にしろ雅楽にしろ歴史の古い音楽性のあるものである。今の若者たちが好むような音楽とは大きく異なる。それなのに好まれるのは何か個人の好みを越えて人間の細胞そのものに作用するものがあるのではないかと思う。声明にしろ雅楽にしてもそうだが、確かに日本のものであるが、必ずしも一般的に楽しまれてきたものではないように思う。それが人気を呼んでいるのは、日本人の中に定着してしまっているものがあるのだろう。いわば“おふくろの味”というものなのかも知れない。讃美歌もおふくろの味になっているのだろうか。

 先週、教会の用事で買い物に出かけたのだが、ショッピングモールをぶらぶらしていると娘と孫に偶然に出会った。父の日の買い物だと言うのだが、楽しみである。ちょうどお昼になるので“マクド”に行って一緒に昼食をとったのだが、大勢の子どもたちが親と一緒に来ていた。子どものころから“ファーストフード”を食べ続けていたら、それこそ“マクド”が“おふくろの味”になってしまうかも知れない。それがマクドナルド社の戦略と聞いたことがある。

 プロテスタントが伝えられて150年。一般の人々にも讃美歌が届いて歌われだしたのはいつ頃だろう。ミッションスクールが盛んになってからだろうか。“慈しみ深い”という讃美歌はよく知られている。クリスマスの讃美歌もよく知られている。でも日本人の細胞に作用するようなところまではいっていないように思える。まだまだキリスト教は日本で異物なのではないかと思う。キリシタン時代、まさに異物として削除された。表面的な問題ではなく、根本的なところに受け入れ難いものがあるのかも知れない。

 とはいえ、そんな中でもキリシタン時代は、260年間にわたって信仰を維持し、明治に入り、キリシタン禁令撤廃を迎えてカトリック教会へ返っていった人たちもいるわけ出す。今日でもキリスト者何代目という人たちもいる。地道に地域に根ざして、コツコツと活動を続けていく。それが一番なんだろうと思う。讃美歌が“おふくろの味”になる日を目指して。

投稿者: 日時: 14:32 |

根をしっかりと張って

 阪神間の教会、教派を越えて教会が協力し合って活動をしている阪神宣教祈祷会という交わりがあります。来年で始められて40年を迎えることになりました。私が加えていただいて20年になりますが、よく続いていると思います。参加をしている先生方も少しずつ変わってきましたが、楽しい交わりです。どうして長続きしたのかと考えますと、色々な要因があろうかと思いますが、大きな原因は、“宣教”という一点に集中しているからであろうと思います。神学的な立場を言い出せは、それぞれ違いがありますので、おそらく一つにはなれないでしょう。でもそれを越えて、人々をキリストの救いへと導く、そのことのために共に労していきましょう、ということで協力が出来ます。それにしても牧師たちの献身的な奉仕がなければ続かなかったと言えます。それは現在、壮年の集い、女性の集い、クリスマスフェスティバルと三回の集会を行っていますが、そこを見ただけでは見えてきません。普段の宣教祈祷会の積み重ねがあってのことで、そこに見えてくるものです。

 今年も教会の夾竹桃が咲きました。白い花は珍しいといわれるのですが、どうも私はこの花を見ると、何かしら“暑い”という思いが出てきます。この夾竹桃は、それこそ40年以上ここに立ち続けているのです。あまり伸びたの大分枝を落としたのですが、あっというまにまた大きくなりました。夾竹桃はなかなか強い木です。駐車場はコンクリートに覆われているのですが、木の周りに小さく土が出ている、そこから入る水を吸っているのでしょうか、元気に育っています。表から見えないところでしっかりと養分を取っているのです。

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 私は教会も、それに個人の信仰者としても同じだと思います。何年で礼拝が何百人となった、自慢げな、そんな話しを聞きますが、それぞれ教会観の違いがあり、背景も違い、教会の流れも違う。そんな話しを聞いても余り参考にはならない。それよりもその教会が出来るところをコツコツ地道にしていくことが大切だと思います。何よりも御言葉とその教会が立っている教理的な立場にしっかりと立ち続ける事です。それが時代や社会の変化に流されることなく、キリストの教会を建て上げていく事が出来る、それが私たちの目指すところではないだろうか。時代が、社会がどのように変わろうとも、御言葉を信じて、御言葉に生きる、そして御言葉を伝えていく。それを時が良くても、悪くても、忠実に続けていく、それが私たちの生きるべき姿です。

 少し話しは変わりますが、村上春樹氏の小説“1Q84”が110万部以上売れているそうです。半数は30歳以下の方々だそうです。昨日の新聞によると、この小説は現代の“倫理”の問題をテーマに据えているとのこと。“オウム事件”が出発点のようですが、普通の人が何となくオウムに入る。洗脳され、そして殺人者となる。倫理の壁が希薄になっていると言います。イデオロギーの対立が明確であった時代が終わり、混沌とした時代になっています。

 教会も様々な教会が現われています。健全な教会とはいえませんが、伝道をしないで教会で不満を持っている人々を集めている教会もあるようです。そして大きな会堂を建てようとしている。そんな時代だからこそ、話しだけを聞いて惑わされるのではなくて、表面的なことにとらわれないで、数にとらわれないで、自分の立っているところをしっかり見つめ直していく必要な時なのかも知れません。

投稿者: 日時: 00:10 |

大器晩成

 「大器晩成」という諺があります。小学館から出ている「故事ことわざ辞典」で調べてみると、「鐘や鼎のような大きな器は早く作り上げる事ができないように、本当の大人物は、発達は遅いけれども時間をかけて実力を養っていって後に大成する」という意味だと説明をしていました。この言葉の出典として紹介されていたのが「老子」であります。その41章に「大方無隅、大器晩成、大音希声、大象無形」と書いているのだそうだ。

 しかし、蜂屋邦夫という中国思想史の研究者が岩波書店から「老子」という本をだされました。彼によりますと、1973年に湖南省長沙市から「老子」が出土したそうです。それには甲と乙、二種類出たそうで、一つは前漢のもので紀元前200年ぐらい(甲本)。もう一つ(乙本)はそれから数十年後のもののようです。その甲本には失われていたけれども乙本には「大器免成」と書いているのだそうだ。

 この「免」という字の意味ですが、更に古い紀元前300年ごろの「老子」によれば「大器蔓城」と書かれているそうで、その「蔓」というのは「無」と中国の古い辞書にはあるそうだ。それと同じ意味だというわけである。それに「大」というのも「無限大」を意味しているということで、要するに「大器免成」とは、“無限に大きい器は完成する事が無い”という意味なのだそうだ。老子は人のことを語ったのではなく、自分が発見した無限概念の一例を挙げているのだ。ということのようです。

 それがとうして「大器晩成」として語り継がれてきたのか。「大」が無限であるという老子の考えを引き継いだのが恵子であるが、中国人は現実主義で、純粋な論理というものは好まれないようで、「器」は道具だけでなく、人材にも転用されて用いられるので、「大物は完成するまでは遅い」という意味での「大器晩成」という言葉として使われるようになっていったというわけです。というのが蜂屋邦夫氏の説明を大まかに書いたのですが、ともかくも老子の思想とは異なって今日まで伝えられてきました。

 しかし、考えてみると、人は「大器晩成」という言葉を必要としたのではないかと思います。“うちの子はよその子に比べて成長が遅い”と嘆く親に、“大丈夫よ、あなたの子は大器晩成型なのよ”と励ます。人はそういう言葉を必要としているのです。でも、そこに人の弱さがあるのかも知れません。

 自分の何かによってでないと自分を立てることが出来ない。結果を残さないと自分が生きている、その意味すらも否定されてしまうように思える。成果主義というか、そんなものが人の中にはある。自分で自分を追い込んでしまう。そんな自分を慰め、励まし、納得させるために「大器晩成」という言葉は便利である。この言葉を頼りに生きてきた者もいるかも知れません。

 イエスは“律法学者やファリサイ派の人々の義にまさらなければ天国に入れない”といわれたことがあります。律法を研究し、それを実現するために生きていた彼らに誰が優るというのか。しかしそのような彼らではあるが、イエスは“白く塗った墓”と称しました。外は美しく見えても、その中は腐った骨で一杯なのである。彼らをしても律法を完成する事は出来なかった。それが人間の現実です。

 でも、そのような人に対して神は、「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」とイザヤ書43章4節で語っています。神が私たちには価値がある、貴い存在だと言われています。そのように私たちを愛するがゆえに独り子を私たちに下ったのだ。この神が私たちに価値を与えて下さる。そこで人は本当の意味でしっかりと立つことができるのです。

投稿者: 日時: 16:50 |