2009年05月のアーカイブ

礼拝と交わり

 隠れキリシタンが260年に及ぶ厳しい弾圧をしのぎ、キリシタン復活を成しえたのはいかなる理由によるのだろうか。今日の私たちもそこから学びうることはないのだろうか。

 三つの理由が考えられる。一つは、隠れキリシタンの多くが下層の農民であったということです。指導的な人間は目立ち、すぐに捉えられてしまう。指導者を失った民衆は隠れるいがいにない。二つ目は、“コンフラリア”という互助組織をもっていた。三つ目は、聖画や教書などを、宣教師や司祭たちを失っても保有していたからである。

 そこで二つ目と三つ目のことについて考えてみると、260年にわたって潜伏して信仰を継承しえたのは、日本人の信仰心の強さとか、志操堅固な精神性によるとかという問題ではすまないものがある。室町時代から民衆のヨコのつながりが、宗教的思想と結びつくという特徴を持っている。その代表が本願寺派の一向宗である。それが政権の脅威となっていく。その流れとも言えるかと思うが、キリシタンの組織であるコンフラリアが民衆組織として強力なヨコの繋がりを生んでいく。コンフラリアはヨーロッパからのものだが、それが日本でも定着したと言える。この組織が、司祭がいなくても、祭壇を持ち、カテキズムを持つことによって信仰による団結を得たのである。フロイスの報告によると、1552年にトロレスのもとで、山口の信者たちが団結して弱者を助けていたという記録が残っているが。それが弾圧下で地下組織となっていく。「サンタ・マリアの組」「ロザリオの組」「教えの組」などが存在した。弾圧のもとで彼らは助け合った。

 次ぎに三つ目のことは、1657年に「郡崩れ」と言われるキリシタン発覚事件が起こり、大村の郡村などで608名が捕らえられる。その時に彼らが聖画を所持していたことが分かっている。それでも大村の外海にキリシタンは潜伏し続けた。それは場所が辺鄙な所というのもあるだろうが、彼らが信仰を維持し得たのは、バスチアンという宣教師が残していったと言われる教会歴と十字架を保持していたからだと言われる。彼は殉教したようだ。それから黒崎のキリシタンは「天地初之事」など、幾つかの教書を保持していた。また「浦上一番崩れ」のきっかけになったのが、利助が持っていた人形である。“御身様”と呼んでいた。奉行所のお目こぼしで助かる。このように彼らは信仰を教化する何かを持っていた。それによって信仰を維持したのである。

 ただ、彼らは捕縛されても“自分たちはキリシタンだ”とは言わなかった。仏教とはことなる信仰だと主張し、“踏絵”も踏んだ。奉行所も表立たない限りお目こぼしをした。それが「三番崩れ」まで続く。

 しかし「浦上四番崩れ」1867年(慶応3年)の事件では、キリシタンの娘の埋葬に際して、人間には不滅のアニマがあり、これが天国で救済されるためには寺に葬る事は出来ない、ということで起こった事件です。信者はこのようにして信仰を表明するのである。三千人余りが捕らえられ、そのうち六百名ほどが獄死したといわれている。

 「浦上三番崩れ」が1859年のこと、その時、彼らは信仰を隠した。しかしそれから8年後の「浦上四番崩れ」1867年では信仰を表明した。その間にいったい何があったのか。慶応3年といえば明治維新直前であるが、既に浦上にはカトリックの宣教師が来日していた。そのことを浦上の人たちは知っていた。260年にわたって彼らはそれを待ち続けていたのである。それで自分たちはもう信仰を隠す必要がないと信じたのであろう。

 信仰を隠していたとき、コンフラリアでそれを受け止め、隠すべき信仰としてみんなで理解をしていた。また宣教師が来日したことも組で受け止め、信仰を表明し、自ら弾圧を受けていく。しかもその交わりが具体的な支えを生んでいく。そして恐らく地上のコンフラリアの交わりが天国ともつながっていたのだろう。

 信仰を維持していくのに礼拝と交わり、そして教え。いつの時代もその形は違ったとしても根本的なところで共通するものがあるような気がする。

投稿者: 日時: 00:06 |

のびのびゆったりと

 下記の写真は甲山で神呪寺の風景ですが、戦中、戦後は背景の山も禿山だったそうです。燃料のためにすべて伐採されていたのですが、植林がなされてきたのでしょうが、今はこのように緑の多い山となっています。何か自然の回復力というものを覚えます。

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 旧約聖書の詩編104編には自然がうたわれている。水は川となって谷間を流れ、神が定められたところに溜まる。その水によって野の獣や野ロバが喉を潤す。そしてその水によって木が育ち、「そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。」といわれている。ここに他にも幾つかの獣が出てくる。岩狸もそうだ。詩編に「高い山々は野山羊のため。岩狸は岩場に身を隠す。」とうたわけている。高い山は人が登るためにあるのではなく、獣たちのために神が設けたとうたわれている。

 旧約聖書の箴言というところにも出てくる。そこでは小さな生き物の一つとして数えられている。「この地上に小さなものが四つある。それは知恵者中の知恵者だ。」といわれて岩狸が出てくるのだが、他にも“ヤモリ”というのが出てくる。なぜヤモリが知恵者かというと、王様は自分のために財力を投じて宮殿を建てるが、ヤモリはそこに住み着くというわけだ。聖書というのは面白い。

 そのように小さな生き物に神様は目を留められるのだが、さらにこんなことも詩編でうたわれている。海である。イスラエルというのは陸の民であるので、おそらく海というのは恐れの対象であろう。その海の中に海獣がでてくる。「舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。」と。このレビヤタンというのは想像上の生き物ですが、イスラエルの恐れの対象として描かれているのでしょう。でも詩人は、その恐れの対象を、子どもが踊るように「戯れる」と描いている。

 この詩編104編は、神様をほめたたえる言葉で始まり、神様をほめたたえる言葉で終わる。要するに聖書の信仰というのは、神様を仰ぎながらの生活は、のびのびと、ゆったりと生きられることを表しています。

 話しを新約聖書に飛ぶが、ルカ12章24節に「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」とイエスは語っている。ルカが「カラス」と言っているが、当時、モーセの律法によるとカラスは不浄の鳥とされていた。レビ記11章15節に「鳥類のうちで、次のものは汚らわしいものとして扱え。食べてはならない。それらは汚らわしいものである。禿鷲、ひげ鷲、黒禿鷲、鳶、隼の類、烏の類、・・・」と。いくら安いとはいえ、雀は五羽で2アサリオンで売られていた。それなりの商品価値がある。しかしカラスは律法で、不浄とされ、食べてはならないと戒められている。要するに人間の生活になんの貢献もしない、商品価値のないものだ。しかし神様は、その小さきもの、価値なきものに対しても愛を注いで支えてくださるのだ。

 この神様に見守られて生きる日々は、本当にゆったりとした思いが与えられるのではないでしょうか。

投稿者: 日時: 15:09 |