健康だけがすべてではない

 最近は、テレビを見ていると健康器具の販売が多いように思います。お腹の脂肪や腕の脂肪をとる、振動するベルトとか、腰を引き締めると言われる馬のように乗って、左右前後に揺れる機械とか、色々とあるようです。

 それだけではなくて、伝統芸能すらも健康という視点から見直されています。例えば“日舞”というのは、聞くだけでも敷居が高いと感じますが、浴衣という気軽さで踊れ、普段余り使わない深層の筋肉も動かすと言う事で、フィットネスとしても人気があるようです。しかしみっちり踊りの基本は教えるようです。また“笑い”は健康にいいということで“落語”も人気があります。もともと根強いファンがあるのですが、あちらこちらで小さなライブも最近はあるそうです。更に面白いのは、“おふくろの味”においても書きましたが、お経に節をつけて歌うというか、読むというか、仏教特有の“声明”といわれるものも、バーなどで僧侶たちによるライブもあるようで、ネットで調べてその日には若者たちも集まってくるといいます。静に聞いていると心が安らぐということのようです。日本人のDNAの中に組み込まれているのか、そこに作用するのか、心の健康という視点からも見直されているようです。

 私も最近は何となく右膝に軽い痛みを感じることがあるのですが、恐らく若い頃に柔道をしていまして、その時に膝を痛めて、曲がらなくなったことがあり、当時、実家のトイレが和式だったので困った事を覚えていますが、その時のが年を重ねる中で出て来たのかな、と思ったりしています。健康であるということは、大事だし、いつまでも元気でいたいと願います。特に“寝たきり”にはなりたくないと誰しも思うでしょう。高齢者が増える中で、健康に注目が集まるのかもしれません。

 しかし、とは言っても、自分の願通りにいかないこともあるわけです。では、健康を損なう、そこに意味がないのだろうかと思います。マイナスと思われることに意味はないのだろうか。確かに人は好まないが。だが、そこにも意味を見出すことが重要ではないかと思います。いつまでも右肩上がりではおれないし、現状維持も難しくなってくることもあるのですから。

 いや、体力だけではありません。心も硬直してくることがあります。旧約聖書のヨブ記というところには「日を重ねれば賢くなるというのではなく/老人になればふさわしい分別ができるのでもない。」と書いてありまして、人の言葉が聞けない、ということも起こります。

 しかし悪いことばかりでもありません。旧約聖書のレビ記というところには「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」と書いてあります。神は一人一人を造り、命の日々を加えておられるのです。心身の衰えも神なしにあるのではありません。長い人生の背後には神がおられ、生かしておられる神のご意志があるのです。

 ですから神は、「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
46:4 同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ書)と約束して下さっているのです。神が最後まで担って下さるというわけですが、このように神が最終的に私たちの人生に意味を与え、根拠を与えてくれるわけです。誰一人として自分で生まれ死んでゆく者はいないのです。神が私たちをこの地上に置かれたのです。

 だとしますと、元気な時だけに意味があるのではなくて、衰えた時にも意味が有り希望があるのです。死んでしまえば終わり、ということではなくて、私を造って下さった神のもとに帰るからです。こんな望みを持って、日々、新しい朝を迎えて、一日を過ごさせていただき、夕べには、すべてを神に委ねて眠りに着くのです。

投稿者: 日時: 2009年06月25日(木) 16:47