根をしっかりと張って

 阪神間の教会、教派を越えて教会が協力し合って活動をしている阪神宣教祈祷会という交わりがあります。来年で始められて40年を迎えることになりました。私が加えていただいて20年になりますが、よく続いていると思います。参加をしている先生方も少しずつ変わってきましたが、楽しい交わりです。どうして長続きしたのかと考えますと、色々な要因があろうかと思いますが、大きな原因は、“宣教”という一点に集中しているからであろうと思います。神学的な立場を言い出せは、それぞれ違いがありますので、おそらく一つにはなれないでしょう。でもそれを越えて、人々をキリストの救いへと導く、そのことのために共に労していきましょう、ということで協力が出来ます。それにしても牧師たちの献身的な奉仕がなければ続かなかったと言えます。それは現在、壮年の集い、女性の集い、クリスマスフェスティバルと三回の集会を行っていますが、そこを見ただけでは見えてきません。普段の宣教祈祷会の積み重ねがあってのことで、そこに見えてくるものです。

 今年も教会の夾竹桃が咲きました。白い花は珍しいといわれるのですが、どうも私はこの花を見ると、何かしら“暑い”という思いが出てきます。この夾竹桃は、それこそ40年以上ここに立ち続けているのです。あまり伸びたの大分枝を落としたのですが、あっというまにまた大きくなりました。夾竹桃はなかなか強い木です。駐車場はコンクリートに覆われているのですが、木の周りに小さく土が出ている、そこから入る水を吸っているのでしょうか、元気に育っています。表から見えないところでしっかりと養分を取っているのです。

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 私は教会も、それに個人の信仰者としても同じだと思います。何年で礼拝が何百人となった、自慢げな、そんな話しを聞きますが、それぞれ教会観の違いがあり、背景も違い、教会の流れも違う。そんな話しを聞いても余り参考にはならない。それよりもその教会が出来るところをコツコツ地道にしていくことが大切だと思います。何よりも御言葉とその教会が立っている教理的な立場にしっかりと立ち続ける事です。それが時代や社会の変化に流されることなく、キリストの教会を建て上げていく事が出来る、それが私たちの目指すところではないだろうか。時代が、社会がどのように変わろうとも、御言葉を信じて、御言葉に生きる、そして御言葉を伝えていく。それを時が良くても、悪くても、忠実に続けていく、それが私たちの生きるべき姿です。

 少し話しは変わりますが、村上春樹氏の小説“1Q84”が110万部以上売れているそうです。半数は30歳以下の方々だそうです。昨日の新聞によると、この小説は現代の“倫理”の問題をテーマに据えているとのこと。“オウム事件”が出発点のようですが、普通の人が何となくオウムに入る。洗脳され、そして殺人者となる。倫理の壁が希薄になっていると言います。イデオロギーの対立が明確であった時代が終わり、混沌とした時代になっています。

 教会も様々な教会が現われています。健全な教会とはいえませんが、伝道をしないで教会で不満を持っている人々を集めている教会もあるようです。そして大きな会堂を建てようとしている。そんな時代だからこそ、話しだけを聞いて惑わされるのではなくて、表面的なことにとらわれないで、数にとらわれないで、自分の立っているところをしっかり見つめ直していく必要な時なのかも知れません。

投稿者: 日時: 2009年06月17日(水) 00:10