2009年07月のアーカイブ

ラジオ体操

 学校が夏休みに入り、1丁目の公園でラジオ体操がはじまった。朝の六時半から始まるのだが、子どもたちは既に集まっている。地域の子ども会の主催ですが、前に立っているのは1丁目の自治会長さん。休まずに朝出てこられている。第一体操は覚えているのだが、第二体操はどうもウル覚え。間違いながらもついていくのだが。教会の夏期学校でも朝行うのですが、一年に一度で、なかなか覚えられない。一年に一度だからと言い訳をいうのだが。しかし毎朝、公園にいって体操をして一日始めるのは気持ちがいい。少し牧師としては変なコメントですが(朝は御言葉から、というのが普通)。

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1丁目の公園でのラジオ体操

 しかし、理屈を言えば、体と心と霊は一体。肉体を視野に置きながら天的な力を覚えるのが大切なのだ。“主の祈り”の第四番目の祈りは「我らの日用の糧を今日も与え給え」というものだが、この「日用」という言葉は原語学的にきわめて珍しい言葉で、聖書にはほとんど出てこない。マタイ伝6章11節に見られるが。学者によると、パピルスにこの言葉が見られ、“次の日のために”という意味で使われているのだそうだ。それで「日用」とか「必要」というように訳される。

 面白いことに、ここで祈られているのは肉体的な必要です。霊的なことが問題になっているのではない。イエスは、荒野の誘惑で、空腹を覚え、サタンから石をパンに変えてみろと誘惑されたときに、“人はパンのみによって生きるにあらず”と答えたし、またヨハネ伝では“私は命のパンである”とも言っている。そのイエスが、この主の祈りを教え、肉体的なことのために祈ることを教えている。肉体的なこと、物質的な必要のことも視野に入れながら、天の父を覚えてこそまことの霊的なことになるのだ。すなわち地上的なことは天の父によって支えられているということである。

 そのように教会は生きている。教会も地上にある限り肉体を持っている。そしてその必要もお願いをしている。それが今で言えば夏期献金のお願いといえるし、それが皆さんの具体的な教会の諸活動における働きだ。その必要を天の父が支えてくださる。その教会という肉体に与えられている能力、あの教会、この教会、能力には差がある。いや、“ありすぎだ!”とすら思う事もあるのだが。言っても仕方がない、与えられたところで感謝する、いや、この感謝こそが大切だろう。まず感謝して受け入れ、そしてそこで私たちには何ができるのか、できるところを模索するのである。やみくもに“あれが足らない”“これが必要”と叫ばない事、まず祈り、神が我々に与えられている賜物でできることの最善を求めよう。天の父が備えられる。それが主の祈りの教えである。

 さて、1丁目のラジオ体操に戻るが、いつまで続くのかというと1週間である。短い! と会長は言う。そのとおりだと思う。しかし助かる。なぜ、私が朝のラジオ体操に出ているかと言うと、自治会の副会長をしているのだが、今年は“子ども会の担当”と言われているからだ。すべてお母さん方がされるので私は出るだけだが。私が子供のころもやはり朝のラジオ体操はあった。そしてこんなに短くはなかった。あの時のように長くあると、出るだけでもなかなか大変だ。

 しかし、いつ頃から夏休みのラジオ体操が始まったのか、知らないのだが、恐らく個人主義の強い世界では、毎朝に一箇所に地域の子どもや大人が集まって、規則正しい体操をする、それも毎日するというのはないだろう。日本的というか、東洋的と言える。それが何やかんやといいながら今日まで続けられてきている。一つの文化と言えるし、民族性というものが現れているように思う。でも、これからは本当に地域のつながりが必要になってくるように思います。そうした地域の中で私たちはここで礼拝をしている。私たちは存在をしています。その図式を頭の中に浮かべてみる。

投稿者: 日時: 15:15 |

偶像礼拝

 夏期学校が19日~20日と、天候はよくはなかったが、外でのプログラムも雨の合間をぬって行う事が出来ました。人は適当に入れかほりながらも続けられています。中には六年間続けて夏期学校に来てくれている子どももいます。どこまで教会と関わりを持ち続けることが出来るのか分かりませんけれども、教会として出来る事を最善を尽くせばいいと思っています。結果は神様に委ねて、ということですが。

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写真は工作している風景

 その夏期学校の中で食事の時に六年生の子にお祈りをしてもらいました。その子は六年間続けて夏期学校に来てくれている子です。しかし普段の教会学校に来ていません。あるいは就寝前に参加をした子どもたちと一緒にお祈りをしました。子どもたち、一人一人がたどたどしい言葉でお祈りをします。初めての経験、という子どももいます。そこでふとあることを思い出しました。

 イエズス会のインド管区長も務めた神学者でもあるフランシスコ・ロドリゲスが、1570年に「日本におけるパードレたちが諮問してきた諸事例への回答」という文書を書いているのですが、その中で偶像礼拝について論じている、そのことについてです。長い文章ですので引用はしませんが、要するに次のようなことを語っています。

 キリシタンは、異教徒である領主や親に伴って神社仏閣に赴いて偶像礼拝を外見上行うことが許されるのか否かという問題です。ロドリゲスは、領主や親に対して無礼な事をしてはいけないと説いています。ですから領主や親に仕えるということで外見上偶像礼拝を行う事は許されるとしています。ただし、キリシタンであることを告白しなければならないといっています。この時はまだ迫害が起こっていませんので、キリシタンであることを告白する事は可能であったわけです。キリシタンソということを明確にして、主人に奉仕するという形で、外見的に神社仏閣で拝むということを許しているわけです。占拠地で苦慮している宣教師の思いが見えてくるようです。

 またこんな話しもあります。豊後の大友は受洗しますが洗礼をまだ受けていないときの話しですが、大友が洗礼も受けていないのにミサ(聖餐式)に預かりたいと神父に申し出ます。彼はインド管区長、恐らくロドリゲスの前のクアドロス時代だと思いますが、彼にミサを授けるかどうかの教皇の許可を得ることについて審議すべき事を書き送っています。

 前者にしても、特に後者などは今日では議論の余地もないことで、許可など下りるものでもないし、恐らくその願いを聞いた聖職主のところでお断りをしているだろう。イエスズ会は日本の文化に合わせて宣教したといわれていますが、そこにまた彼らの苦悩があったと思われます。日本の文化に合わせてということは受け入れて、ということで、「受け入れる」ということは苦悩が伴うものです。そこで宣教地での神学を営んでいるのです。こんな話しをヨーロッパへ持っていけば、おそらく相手にもされないであろう。むしろ対決姿勢でいくほうが気が楽かも知れません。

 さて、夏期学校での食事の時のお祈りや就寝前のお祈りの話ですが、ロドリゲスの「日本におけるパードレたちが諮問してきた諸事例への回答」の中に出てくる偶像礼拝の、いわば逆のようなことを私たちもしていると言えます。お祈りをした子どもは信仰をもっているわけではありません。けれどもちゃんとお祈りをする事が出来ました。そのお祈りを聞いていて嬉しく思うわけですが。

 では、話しはそう単純ではないのですが、キリスト者が他の宗教行事に遭遇したらどうするのか。人それぞれだが、自ら主体的に判断をしなければならないのですが、他者のとった態度を見て単純に非難はできない。

投稿者: 日時: 21:57 |

橋をかける

 古い映画を見たのですが、主演は、既に亡くなられていますが緒方拳であった。他に西田敏行などが出ていましたが、船が漂流してロシアに漂着します。何とか五~六名の者たちが生き残り、人々の協力を得て10年近くロシアで生活する事が出来、そして、ついに帰国する事が許されて、日本に帰る事になる。しかし、時は1790年代、鎖国の最中である。ロシア船は北海道に着き、通商条約を結ぶならば漂流民を返すと幕府に迫るのだが、それを拒否。彼らは上陸を許されなかった。開国されるまであと半世紀待たなければならない。しかし彼らはロシアで、“あなたがたに出合ったのは偶然とはいえ帰国のために尽くすのは私の使命”といって、病に倒れるまで力を尽くしてくれた一人のロシア人に出会っう。それはとても大きなことであった。政治家はこれを利用しようとするが、利害を越えて人と人との間にかけられる橋は、真の平和をもたらします。似たような話しが三浦綾子の“海嶺”という小説にあった。

 どちらの話しにもキリスト信仰の話しが出てくる。前者の場合はロシア正教であるが、洗礼を受けたので、帰国すると死罪になる。自ら帰国することを断念する。その男を演じているのが西田敏行であった。フルベッキという宣教師がやってくるが、彼は明治政府の顧問として働く。後に宣教の働きに専念するのだが、明治に“岩倉使節団”というのが米欧を訪問しますが、その原案を考えたのがフルベッキである。彼には一つの狙いがあった。それは“キリシタン禁令の高札”を撤廃させることであったのです。使節団が出発するころには高札は撤廃されていましたが。日本と欧米の間に橋をかけようとしたのである。

 新聞を見ていると、何日か前に近鉄のある駅で高校生が同級生を刺殺するという事件がありましたが、それについて、木造の橋の良さにかけて語られていましたが、殺そうと思い数日前から包丁を用意していた。憎しみ、恨み、殺そうと思うほどに深かったということですが、殺すに至るまでに流す道はなかったのか。誰にも“憎い”と思うことがあったと思う。多くの場合それが人を傷つけるまでに発展しないで、何らかの形で流してきた。そして簡易であっても人との間に橋をかけてきた。橋が流れればまた橋をかけてきた。人を赦すためには理由がいります。少なくとも“謝罪”という言葉が必要です。二人の間に何があったのか知らないが、お互いの間に橋をかける道はなかったのか、と思います。

 今年はプロテスタント・キリスト教が伝えられて150年。福音の橋をかけるべく宣教師たちが日本にやってきた。聖書の中に「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」という言葉がある。更に「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」という言葉もある。

 神がご自身に背いていた人間、敵対していた人間との間に和解の橋をかけるために、独り子イエスを犠牲にしたということですが、神は人間を赦す合理的な理由がないにもかかわらず、いや人間を愛するというゆえに自ら大きな犠牲を払って橋をかけてくださった。

 こんな橋をかけてくださる方もおられるのだから、幾度となく橋が流される事があったとしても、幾度でも橋をかけていく努力を怠ってはならない。陸の孤島を造らないようにしなければならない。

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上の写真は、こひつじ園の子どもたちが、裸になって手に筆を持ち、紙の上にあがって、好きなように色を塗りたくったものだ。ぐちゃぐちゃになってしまったが、ピカソ顔負けの作品が完成した。独り独りの子どもが引いた線と線が折り重なっているのだ。ひょっとして宇宙から地上を見ればこのように見えるかも知れない。意味のないような線と線の集まりだが、しかしどれ一つとして絡み合わない線はない。聖書の神は和解の神と言われるが、関係の中で生きるのが本来の人の姿である。壊さないようにと思うが、しかし壊れる事もある。その時にこそ和解の神がおられることを思い起こそう。

投稿者: 日時: 09:13 |