大器晩成

 「大器晩成」という諺があります。小学館から出ている「故事ことわざ辞典」で調べてみると、「鐘や鼎のような大きな器は早く作り上げる事ができないように、本当の大人物は、発達は遅いけれども時間をかけて実力を養っていって後に大成する」という意味だと説明をしていました。この言葉の出典として紹介されていたのが「老子」であります。その41章に「大方無隅、大器晩成、大音希声、大象無形」と書いているのだそうだ。

 しかし、蜂屋邦夫という中国思想史の研究者が岩波書店から「老子」という本をだされました。彼によりますと、1973年に湖南省長沙市から「老子」が出土したそうです。それには甲と乙、二種類出たそうで、一つは前漢のもので紀元前200年ぐらい(甲本)。もう一つ(乙本)はそれから数十年後のもののようです。その甲本には失われていたけれども乙本には「大器免成」と書いているのだそうだ。

 この「免」という字の意味ですが、更に古い紀元前300年ごろの「老子」によれば「大器蔓城」と書かれているそうで、その「蔓」というのは「無」と中国の古い辞書にはあるそうだ。それと同じ意味だというわけである。それに「大」というのも「無限大」を意味しているということで、要するに「大器免成」とは、“無限に大きい器は完成する事が無い”という意味なのだそうだ。老子は人のことを語ったのではなく、自分が発見した無限概念の一例を挙げているのだ。ということのようです。

 それがとうして「大器晩成」として語り継がれてきたのか。「大」が無限であるという老子の考えを引き継いだのが恵子であるが、中国人は現実主義で、純粋な論理というものは好まれないようで、「器」は道具だけでなく、人材にも転用されて用いられるので、「大物は完成するまでは遅い」という意味での「大器晩成」という言葉として使われるようになっていったというわけです。というのが蜂屋邦夫氏の説明を大まかに書いたのですが、ともかくも老子の思想とは異なって今日まで伝えられてきました。

 しかし、考えてみると、人は「大器晩成」という言葉を必要としたのではないかと思います。“うちの子はよその子に比べて成長が遅い”と嘆く親に、“大丈夫よ、あなたの子は大器晩成型なのよ”と励ます。人はそういう言葉を必要としているのです。でも、そこに人の弱さがあるのかも知れません。

 自分の何かによってでないと自分を立てることが出来ない。結果を残さないと自分が生きている、その意味すらも否定されてしまうように思える。成果主義というか、そんなものが人の中にはある。自分で自分を追い込んでしまう。そんな自分を慰め、励まし、納得させるために「大器晩成」という言葉は便利である。この言葉を頼りに生きてきた者もいるかも知れません。

 イエスは“律法学者やファリサイ派の人々の義にまさらなければ天国に入れない”といわれたことがあります。律法を研究し、それを実現するために生きていた彼らに誰が優るというのか。しかしそのような彼らではあるが、イエスは“白く塗った墓”と称しました。外は美しく見えても、その中は腐った骨で一杯なのである。彼らをしても律法を完成する事は出来なかった。それが人間の現実です。

 でも、そのような人に対して神は、「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」とイザヤ書43章4節で語っています。神が私たちには価値がある、貴い存在だと言われています。そのように私たちを愛するがゆえに独り子を私たちに下ったのだ。この神が私たちに価値を与えて下さる。そこで人は本当の意味でしっかりと立つことができるのです。

投稿者: 日時: 2009年06月10日(水) 16:50