おふくろの味

 今日は独りで昼食をとりました。家内は超教派の女性の集いのスタッフ会に出かけ、子どもたちも仕事や学校へでかけ、私一人の昼食であるが、特に珍しいということもない。だいたい昼食は自分で用意することが多い。月曜日は基本的に休みなのだが、月2回ぐらいは教会関係の用事で出ているので外で食事をとることになる。今日は個人的な用事で出かけるつもりだったのだが、朝に雨が降っていたので中止にした。昼前から晴れた来たので出かけていればよかったと後悔しているが、しかし久し振りのゆったりした月曜日になった(と言ってこれを書いているのだが)。そしてゆっくりと昼食をとった。冷蔵庫に何もないので、パンに色々と乗せてピザ風にして食べた。しかしお昼にパンを食べるというのは、お昼はだいたい麺類が多いので、何となく落ち着かない気分である。

 私は上滑りなのであるが、少し仏教に興味があって鈴木大拙の本を読むことがあるのだが、最近、仏教周辺に興味を持つ人々が、特に若い人たちが増えてきているような気がするのだが。仏教には“声明”というのがある。お経を節をつけて読むのだが、千年以上の歴史がある。キリスト教で言えば、いわば“グレゴリオ聖歌”というところだろうか。ある関西の僧侶たちの声明のグループがバーでライブをやっていると言う。月一度のようだが、その店の常連が増えたという。ネットで調べてわざわざその日に若者がやってくるという。聞き終えると何かホッとする、頃の静けさが与えられるという女性もおられるようで、宗教抜きで楽しめるというわけである。

 最近、人気なのは声明だけでなく“雅楽”もそのようである。声明にしろ雅楽にしろ歴史の古い音楽性のあるものである。今の若者たちが好むような音楽とは大きく異なる。それなのに好まれるのは何か個人の好みを越えて人間の細胞そのものに作用するものがあるのではないかと思う。声明にしろ雅楽にしてもそうだが、確かに日本のものであるが、必ずしも一般的に楽しまれてきたものではないように思う。それが人気を呼んでいるのは、日本人の中に定着してしまっているものがあるのだろう。いわば“おふくろの味”というものなのかも知れない。讃美歌もおふくろの味になっているのだろうか。

 先週、教会の用事で買い物に出かけたのだが、ショッピングモールをぶらぶらしていると娘と孫に偶然に出会った。父の日の買い物だと言うのだが、楽しみである。ちょうどお昼になるので“マクド”に行って一緒に昼食をとったのだが、大勢の子どもたちが親と一緒に来ていた。子どものころから“ファーストフード”を食べ続けていたら、それこそ“マクド”が“おふくろの味”になってしまうかも知れない。それがマクドナルド社の戦略と聞いたことがある。

 プロテスタントが伝えられて150年。一般の人々にも讃美歌が届いて歌われだしたのはいつ頃だろう。ミッションスクールが盛んになってからだろうか。“慈しみ深い”という讃美歌はよく知られている。クリスマスの讃美歌もよく知られている。でも日本人の細胞に作用するようなところまではいっていないように思える。まだまだキリスト教は日本で異物なのではないかと思う。キリシタン時代、まさに異物として削除された。表面的な問題ではなく、根本的なところに受け入れ難いものがあるのかも知れない。

 とはいえ、そんな中でもキリシタン時代は、260年間にわたって信仰を維持し、明治に入り、キリシタン禁令撤廃を迎えてカトリック教会へ返っていった人たちもいるわけ出す。今日でもキリスト者何代目という人たちもいる。地道に地域に根ざして、コツコツと活動を続けていく。それが一番なんだろうと思う。讃美歌が“おふくろの味”になる日を目指して。

投稿者: 日時: 2009年06月22日(月) 14:32