2009年03月のアーカイブ

柔和さをもって

 昭和2年に亡くなった詩人の八木重吉の詩に、
「信じること/キリストの名を呼ぶこと/人をゆるし/できるかぎり愛すること/それを私の一番よい仕事としたい」
というのがあります。こんな思いをいつも抱くことがて出来たら、と思います。

マタイ伝5章5節「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」という御言葉があります。塚本虎二は、この「柔和」という言葉を「『踏みつけられて』じっと我慢している人は幸だ」と意訳しています。また前田護郎は「さいわいなのはくだかれた人々」と訳しています。「柔和」ということが何か辛いもののように思えてきてしまうような言葉ですね。ちょっと私たちには真似が出来ないことなのかも知れませんね。

 旧約聖書で「柔和」というのは、神の御旨に従って生きることを意味するようですが、その意味で真実に柔和に生きられたのはイエスだけなのではないかと思います。私たちの罪の贖いのために十字架にかかり、三日目に甦られたイエスです。そのイエスが、柔和についてマタイでは以下のように語っておられます。
マタイ11章28節以下「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 柔和とは、まさにイエスのためにあるような言葉です。私たちの重荷を担うために自ら低くなって下さいました、十字架にあげられる低さです。それを耐え忍んでくださったのです。「くびき」というのは農機具を引っ張るために牛の首に取り付けられるものですが、ここで考えられているのは、二頭の牛がくびきでつなげられている姿を想像する人もいます。一頭は私たちで、もう一頭イエスを考えます。イエスが私たちと共に荷を負って下さる。その姿を考える人がいます。

 今は四旬節でイエスの苦しみを覚えるときですが、まさにイエスの柔和さが示される季節です。その方が私たちに語りかけているのです。塚本虎二は、「柔和」を「踏みつけられてもじっと我慢している人」と訳しました。イエスこそそのように歩まれました。私たちのためにです。私たちは柔和にはなれない。理不尽なことも世の中にはあります。そんなとき、ついブッチ切れてしまいそうになります。そんな時、イエスが「柔和な人々は、幸いである」と語ってくださいます。

 「柔和」とううのは、人生には理不尽なこともあるし、失敗することもある、しかし、そんな時にも切れてしまわないで、自分のなすべきことをなしていく、与えられたところを、直向きに生きていく生き方ではないかと思います。イエスご自身がそうであられました。そんな揺るがないものを得たいものです。それがイエスとの交わりの中で与えられていくのではないかと思います。

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 私たちの教会では、年に一度、ボウリング大会をしています。楽しい交わりの時、遊びのときですが、こんなことを通して関係を深めています。しかし、人間の関係というのはもろいもので、ちょっとした言葉や行動で崩れてしまうものです。私はそんな人間の姿を見てきました。しかし、その私たちがイエスの柔和さによって支えられているのですから、たとえそのようなことがあったとしても、動じない自分をもって教会の交わりを楽しんでいってほしいと願います。

投稿者: 日時: 11:29 |

卒園式によせて

 3月、年度末、区切りの季節です。こひつじ園は、23回目の卒園式を迎え、14名の園児が卒園しました。それぞれ地域の公立や私立の幼稚園へと進んでいきました。23回なれば、そろそろ卒園者のうちから結婚する人たちも生まれてくるような時期になり、そのうちに卒園者の子どもたちも入園してくるようなことも起こってくるかも知れません。そうなるとどれだけ嬉しいことか。小さな働きだけれども、人を育てる大きな役割を担ってきました。

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 そう、私は学校評議員をしているので、浜甲子園中学校の卒業式に出席しました。校長先生が“自立と共生”というお話しをしておられました。ほとんどの子供たちが高校に進学していく中で大切な教えであると思います。どこまで子どもたちの心に残っているのか? と思いますが。素直に聞く耳を子どもたちに持っていてほしいと願いします。人生の“肥やし”になる話しです。

 私も卒園式で園長としてお話しをしました。4歳の子どもたちです。いつも喜んで聞いてくれます。ちょっと子供たちに質問すると大変です。子どもたちがそれぞれに話し出して、私の話しが出来なくなってしまうほどです。一年間、楽しい園長礼拝をしてきました。さて、このこひつじ園で教えられた、お祈りのことやイエス様のこと、彼らの人生の糧になればと願います。

 私は、マタイ伝のイエスの山上の説教の中の“賢い人と愚かな人の譬え”を話しました。二人の人がいて、彼らがそれぞれに家を建てます。一人は砂の上、もう一人は岩の上。雨が降り、風が吹く。さあ、人生の嵐の中でどちらの家が待ちこたえられるのか。この物語は色んな読み方が出来て面白いと思います。ただ、私の願いは、人生の中で嵐は避けられないし、自分の力ではどうしようもないことがあります。そして時にはそれが理不尽にさえ思えることがあります。そうした中で、嵐に遭った人自身が崩れてしまう、切れてやけになってしまうことがあります。そのように自ら崩れないで、なおそこでしっかりと立ち続けることが出来るように、自分を保ち続けることが出来る土台、縦の座標軸、人生の指針というべきものを持って欲しいと願っています。

教会がここにあり、そこで人々が信仰に生きている。そして彼らにとっても帰ってくることが出来る場所として、心のどこかに残っていてくれればと思います。その心の場所作りでもあると思いますが、今年も夏には子供たちのキャンプが教会学校で予定されています。子どもたちとは、なが~いお付き合いをしたいものです。

投稿者: 日時: 11:42 |

目に見える“しるし”

 2007年11月にペルーとボリビアを旅行しました。その時にご一緒させていただいた方の中に画家がおられて、旅行中も、ふと姿が見えないと思うと絵を書いておられたのですが、その方から時々メールを頂きます。今回も展覧会に出すために100号の絵を三枚かかれたとありました。一号が“はがき”の大きさで、その百倍ですから大作だと言えます。盛んに創作活動に励んでおられる様子がうかがえました

 その方の名古屋での展覧会のご案内のハガキを以前に頂いたことがあり、そのハガキにその方の絵が載っていましたが、明るい雰囲気で祈る女性の姿が描かれていたのを思い出します。その方らしいかな、そんな雰囲気のような気がしました。

 1517年に宗教改革が起こり、カトリック教会内に対抗改革がなされます。その柱は、今までの教義の再確認と前進ということです。そんな時代に生まれた修道会がイエズス会で、キリストの兵士という意味で、教育と宣教に力を注いだ修道会です。有名なのが“ロマーノ・コレジオ”で、今日“グレゴリオ大学”として残っています。日本では“上智大学”がそうですね。1549年に日本にきたザビエルもイエズス会士で、彼は本国に帰ることなく、中国でその生涯を閉じます。その宣教師たちと共に、当時の聖画などが日本に伝えられてきているのです。

 当時の聖画がどのようなものであったのかというと、対抗宗教改革を打ち出したのが“トレント公会議”で、聖画の修正がなされています。その内容は、不合理で不適切な聖画を拒否し、正統的、教義的、歴史的な正確さ、また正直な画像を勧め、聖堂への画像の設置にあたっては、聖職者の検閲を必要とするものでありました。聖画の破壊や、また行き過ぎた画像など世俗性を排除しようとしたのです。信徒を信仰へと導くという目的があるようです。

 イエズス会の創始者ロヨラの“霊操”の中に「見えるように場所を設定すること、ナザレからベツレヘムへの道を想像の目で見、道の長さと広さ、また平坦であるか、谷や丘を越えていくかを観察する。・・・観想における人物を見ること、すなわち、聖母マリア、ヨセフ、はしため、また誕生後のみどり子イエスを見る。さながらそこにいるかのように。」。ロヨラは、自らの住まいに宗教画の小コレクションを持ち、常にその前で祈ったと言う。この“霊操”を修道士の修行に使用した。そうすることによって確かに強い揺るがない精神が造られていくだろうと思う。

 浦上の隠れキリシタンに伝わる歌に、“沖に見えるはぱーぱの船よ、丸にやの字の帆が見える”というのがありますが、この“丸にやの字”というのはマリアのことで、宣教師がマリアの聖画を運んでくることを待ち望んだ歌である。それだけキリシタンの人々にとって聖画が信仰の養いのために大きな役割を果たしたということでしょう。

 最近は、静かな仏像ブームだそうです。若い女性たちがお寺に行く、不思議な気もするのですが、“心が安らぐ”とのこと。それだけ厳しい時代なのかもしれない。しかし、裏打ちのないものは一時的なもので終ってしまう可能性が大きい。

 目に見えるもので精神を高揚させるのも一つの手、高揚し続けることが出来れば、迫害にも死を恐れない精神も生まれるかも知れない。しかしどのような世相であっても、揺るがない信仰を得るためには、御言葉によってしっかりと裏うちされていなければ道を誤るかも知れない。聖画の前で祈る・・・・何かで自分を縛っていくような気がしてくる。ヨナの説教がニネベの人々のしるしとなり、彼らが悔い改めたように、私たちには、イエスの福音という御言葉のみが、目には見えないが“しるし”として与えられているのだと思います。

投稿者: 日時: 15:16 |

土着

 宗教と芸術というものは切っても切れない関係にあります。例えば“音楽”もそうです。もともとは礼拝行為の中から神を讃美する歌、“グレゴリオ聖歌”が生まれ発展したきました。仏教では“声明”というのがあります。絵画もそうです。ギリシャ正教では“イコン”と呼ばれる聖画があり、カトリック教会でも“聖母像”が数多く描かれてきました。それは単に信仰者たちが楽しむためだけではなく、礼拝ということと深く関係しますし、“宣教”ということに直接関係してきます。

 ローマ・カトリック教会の法王ピウス11世(在位1922年~1939年)の言葉に下記のようなのがあります。
「キリスト教美術は統一されていなければならないが、画一的であってはならない。各地の人間性から生まれ、共通の目的に向かう芸術はすべてこれを受け入れること、ことなった文明を尊敬し、理解し、それをとおしてキリストの福音を生きた言葉で語れ、すべてキリストの世界に入ったものは対等であり、優劣はなく、その文化を生きる権利をもつ」。

 この言葉が法王の口から出までには数百年を経なければなりませんでした。この教皇の言葉を既に実践していたのが、16~17世紀の日本や中国の布教に深く関わったアレッサンドロ・ヴァリニアーノである。その国の文化に適合し重要な成果をあげたのです。

 日本では「無原罪の聖母」といわれるものがあり、日本髪を結い、和服を着ています。また中国では、ルカ・チェンという人による中国服を着た「謙遜の聖母」といわれる絵があります。日本には、仏教に、衆生の諸難を救うという母性を感じさせる観世音信仰があり、マリアを“マリア観音”などと隠れキリシタンの間では呼ばれたようで、日本人のメンタリティとして聖母崇拝に繋がるものがあったのかも知れません。

 メキシコのシンボルとまで言われている「グアダルーペの聖母」と言われているものがあります。一説によりますと、コルテスがメキシコを征服して10年後、1531年に、改宗した先住民にテペヤックの丘で聖母が現われて、それは太陽のように輝き、足の下は虹のようにきらめいていた。聖母から会堂を建てるように言われ、司教に伝えるがなかなか信じてもらえない。それで聖母が出現したときに季節外れの薔薇が咲いていたので、それを司教のところに持っていくと、聖母像に変わっていた。それでテベヤックの丘に聖堂を建て、そこに聖母像を安置したのが現在に伝えられている「グアダルーペの聖母」と言われるものです。その史実性はともかくとして、先住民は多神教で、テベヤックの丘には大地母神トナンツィンを祀る神殿がもともとあって、その信仰と聖母像の崇拝に繋がったのではないかと考えられている。

 聖書には、マリアはイエスの母という以外は尊敬すべきことは何も書いていない。それなのにカトリックは聖書にないマリアの崇敬を必要としたのかということについて、ヨーロッパの文明には母系性があったと言われています。多くの母神が存在したというわけです。そういう中でキリスト教が根付いていくためにマリア崇拝が必要であったというわけです。

 いわばマリア崇拝は信仰を土着させていくための一つの手段であったともみることが出来ます。二次的なこと、三次的なことを通して普遍的なものに、本質的なものにつなげていく。“適応”あるいは“融合”ということを通して宣教をしてきたカトリック教会の側面を見ることが出来るように思います。

 ある牧師から十字架を頂きました。その先生は病んで人々の所に尋ねていかれて、その十字架を握らせて祈り、また止めるところに十字架を当てて祈ってこられた。そのようにして人々の魂を癒してこられた、その十字架を頂いたのです、私の机の上にぶら下げていますが。私には正直言って抵抗があり、そこまでの信仰がないのですが。でも、考えてみると、いわゆる福音派の一部の人々もしている“オリーブ油を塗る”という行為も似たものといえるでしょう。カトリック教会にはたくさんの飾り物がついていますが、私たちは本質的なものに注視しすぎて、それに人々をつなげていく手段というものを殺ぎ落としすぎたのかも知れません。

投稿者: 日時: 17:52 |