柔和さをもって

 昭和2年に亡くなった詩人の八木重吉の詩に、
「信じること/キリストの名を呼ぶこと/人をゆるし/できるかぎり愛すること/それを私の一番よい仕事としたい」
というのがあります。こんな思いをいつも抱くことがて出来たら、と思います。

マタイ伝5章5節「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」という御言葉があります。塚本虎二は、この「柔和」という言葉を「『踏みつけられて』じっと我慢している人は幸だ」と意訳しています。また前田護郎は「さいわいなのはくだかれた人々」と訳しています。「柔和」ということが何か辛いもののように思えてきてしまうような言葉ですね。ちょっと私たちには真似が出来ないことなのかも知れませんね。

 旧約聖書で「柔和」というのは、神の御旨に従って生きることを意味するようですが、その意味で真実に柔和に生きられたのはイエスだけなのではないかと思います。私たちの罪の贖いのために十字架にかかり、三日目に甦られたイエスです。そのイエスが、柔和についてマタイでは以下のように語っておられます。
マタイ11章28節以下「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 柔和とは、まさにイエスのためにあるような言葉です。私たちの重荷を担うために自ら低くなって下さいました、十字架にあげられる低さです。それを耐え忍んでくださったのです。「くびき」というのは農機具を引っ張るために牛の首に取り付けられるものですが、ここで考えられているのは、二頭の牛がくびきでつなげられている姿を想像する人もいます。一頭は私たちで、もう一頭イエスを考えます。イエスが私たちと共に荷を負って下さる。その姿を考える人がいます。

 今は四旬節でイエスの苦しみを覚えるときですが、まさにイエスの柔和さが示される季節です。その方が私たちに語りかけているのです。塚本虎二は、「柔和」を「踏みつけられてもじっと我慢している人」と訳しました。イエスこそそのように歩まれました。私たちのためにです。私たちは柔和にはなれない。理不尽なことも世の中にはあります。そんなとき、ついブッチ切れてしまいそうになります。そんな時、イエスが「柔和な人々は、幸いである」と語ってくださいます。

 「柔和」とううのは、人生には理不尽なこともあるし、失敗することもある、しかし、そんな時にも切れてしまわないで、自分のなすべきことをなしていく、与えられたところを、直向きに生きていく生き方ではないかと思います。イエスご自身がそうであられました。そんな揺るがないものを得たいものです。それがイエスとの交わりの中で与えられていくのではないかと思います。

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 私たちの教会では、年に一度、ボウリング大会をしています。楽しい交わりの時、遊びのときですが、こんなことを通して関係を深めています。しかし、人間の関係というのはもろいもので、ちょっとした言葉や行動で崩れてしまうものです。私はそんな人間の姿を見てきました。しかし、その私たちがイエスの柔和さによって支えられているのですから、たとえそのようなことがあったとしても、動じない自分をもって教会の交わりを楽しんでいってほしいと願います。

投稿者: 日時: 2009年03月31日(火) 11:29