2009年04月のアーカイブ

ピースメーカーとは誰か

 4月29日、昨日に祭日ですが、鳴尾地区四町会による“子どもフェスタ”というお祭り゛ありました。タコ焼きなどの食べ物や各自治会の子ども会によるゲームコーナー、そして和太鼓、軽音楽グループなどがあり、公園には水も流れ、多くの家族連れがこられ、子どもたちは水遊びと。午前8時から準備をし、10時開催、午後2時ごまで続けられました。このような活動を通して家族や地域の人々との“つながり”が強められていきます。ちなみに私は“雑用係り”というところですが・・・。

 それが教会活動と何の関係があるのかと、思う人もおられるかも知れませんが、教会もこの地域の中の一員ですので、何らかのお役に立てればと思うわけです。このつながりが、いざという時にものを言うのだろうと思います。

 1865年にプチジャン神父らによって大浦天主堂が完成しました。浦上の里の老婆イザベリナ・ゆりが「サンタ・マリアの像を拝みたい」と、捕らえられることを覚悟で、1865年3月17日に天主堂を訪れた。それはおよそ260年以来の信仰表明です。禁教礼のもと、明治まで生き延びた潜伏キリシタンは、長崎、久留米、天草、生月島、平戸、黒崎、三浦、神浦などで発見されていますが、どうして彼らが260年にもわたる迫害に耐えて信仰を維持しえたのか。浦上の村々には、“七代あとにはローマのお頭から遣わされたパーデレが来る”と言い伝えられていたそうです。そのパーデレをプチジャンと考えたのでしょう。それも一つの支えでしょうが。

 片岡弥吉という人が三つ理由をあげています。一つは、潜伏キリシタンは最下層の農民であり、幕府は、指導者層の厳しい対応をしたのですが、農民に対しては寛大であったといわれています。二つ目が、潜伏キリシタンはコンフェラリア(信心会)を組織して、互いに助け合ったのです。それは迫害前からあったのですが、それが村の組織と一体化して、キリシタンたちはお互いに支えあったのではないかと思われます。そして三つ目が、礼拝の対象となっていく“聖母像”の絵画などをもっていたということです。

 そこで注目したいのが二つ目の理由です。260年間にわたって、また何世代にもわたって、信仰を守り続けたことには、仲間の支え、協力が大きかったと思います。お互いにお互いが平和の使者となったのです。

地域活動を考えるときもそうだと思います。お互いがどこの誰かということが分かる、そこには地域の安全があり、そこには何かの時には協力し合える、助け合える、そういうことも生まれてくるでしょう。そうした中で教会の役割もあるだろうと思います。

 マタイ5章9節「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」と書かれています。この「平和を実現する人々」というのは「ピースメーカー」ということです。この人たちとは誰でしょうか。コロサイ1章20節に「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」と書いています。ここで「平和を実現する」という言葉が、「平和を打ちたて」と訳されています。イエスの十字架の血潮によって神と和解させられることによって平和が打ち立てられると言われています。

 キリスト者とは、キリストによって神との和解を得たものです。そのキリスト者に与えられる実として、ガラテヤ5章22節以下に「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」といわれています。私たちは、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制に生きる者として、平和の実現のために召されていると言えるのではないでしょうか。

投稿者: 日時: 18:01 |

男の料理教室

 この日曜日に“男の料理教室”というのを初めて行いました。日ごろ厨房に入ったことのない者たちが、レシピを片手に、“塩が何グラム、砂糖が何グラム”“この焼き加減はどうかな”と戸惑いながら、また包丁を片手にねぎを切っていく。それを指導し、また手助けをする婦人たちが大変だったろう。ハンバーグを作り下が、とても美味しく作ることが出来ました。写真は自分たちが作った作品を前にして、満足げな壮年たちである。しかし、家庭では、まだまだ通用するようなものではない。

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 今回の料理会で面白かったのは、包丁をもってねぎを切り、肉をこねる人がいると思えば、周りから色々と能書きを言いますけれども、手を出さない人がいて、とても面白かった。冗談を言い合いながら、和気藹々と作りました。

 “男子厨房に入らず”と言われますように、最近こそ、あちらこちらで“男の料理教室”というのが行われていますが、社会のありよう、家庭のありよう、そして夫婦関係のありようも大きく変わったということでしょう。今では“主夫業”という言葉もあるのですから。しかし、そこで思うのですが、人生仕事だけではないということです。家庭の中で、仕事以外で、何か存在感を示せたら楽しいでしょうね。“粗大ゴミ”“濡れ落ち葉”などと悪口を言われる存在とならないために。

 詩編121編8節に「あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」という歌があります。これは日々の生活の守りを祈っている詩です。朝起きて身なりを整えて仕事に出て行きます。そして夕方我家に変え追ってきます。そのような日常の姿ですが、休日の日でも家族へのサービスに男料理を振舞ってみるのも楽しいでしょう。そのような家庭の沸き会々が、さらに仕事への励みになるかも知れません。帰宅が楽しみになってくるでしょう。

 年齢を重ねてきますと、誰でも、自分の人生はこれでよかったのだろうか、と思うことがあるものです。一体、自分は何をしてきたのだろうかと思うのです。もちろん仕事は大事でしょう。しかしそれだけで済むのでしょうか。私たちはいつの日か、この地上での人生を終えるのです。そしてどこに帰っていくのでしょうか。帰っていくべきところを持っているまでしょうか。先程の詩編で日々の暮らしの平安を祈った詩だといいましたが、「あなたの出で立つのも帰るのも」というのは、「とこしえに」という言葉があるように、これは同時に人生の終わりに帰っていくべきところのためにも祈られているのです。神の家庭の喜びを味わい知るようにと、聖書は神と共に生きることを勧めているのです。

 その神の家庭の喜びを知っている者の詩、これはニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁にかけられたある患者の詩です。
「大事を成そうとして/力を与えて欲しいと神に求めたのに/つつしみ深く/従順であるようにと/弱さを授かった/より偉大なことが出来るように/健康を求めたのに/より善きことができるようにと/病弱を与えられた/人生を享受しようと/あらゆるものを求めたのに/あらゆることを喜べるようにと/命を授かった/求めたことは一つとして与えられなかったが/願いはすべて聞きとどけられた/神の意にそわぬ者あるにもかかわらず/心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた」。

たとえ人生思い通りにすかなかったとしても、神を愛し、神とともにある人生は、満たされているのです。なぜなら喜んで迎え入れてくれるところがあるからです。

“男の料理教室”についての問い合わせは教会へ。

投稿者: 日時: 22:51 |

正義とは?

 この時期は花見が盛んに行なわれています。私たちの教会も4月5日に、近くの公園に行きまして“花見昼食会”を、壮年と婦人が合同で行いました。公園に行った人たちはお弁当を取りましたが、教会に残った若い人たちは、自分たちで“お好み焼き”を作って食べたようです。どちらが美味しかったのか、それぞれ自分たちのほうだと思っているでしょう。桜も美しく、気温も暖かく、とても気持ちのいい昼食会でした。

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 その昼食会の時に雑談をしている時に、ある壮年の方が携帯を見まして、“北朝鮮が午前11時半ごろにミサイルを発射したようですね”と言われました。気になっていたのでしょう。私は礼拝のことなどで、つい忘れてしまっていたようです。11時半と言えば、私たちがまだ礼拝をささげていました。その時に日本の上を飛んで行ったわけだ。これを何と考えたらいいのだろう。ある政治家が“主権の侵害だ”と言っていましたが、確かにそうです。了解もなしに、事故が起こり、日本に落下物があれば大変なことになるのだから、当然、無断で飛ばすということはあり得ない、それが常識でしょう。それをあえて行う、そこには日本に対する何かがあるのでしょう、いや、それ以上に世界にアピールしたいものがあるのでしょう。その前には日本など小さいのです。

 色々と憶測は出来ますが、要するに“力こそ正義”という考えが根底にあります。かつて日本もその考えに従いアジアに進出していきました。欧米もそうでした。世界はまさにパワーケーム。

 “正義”とは何でしょう。「義」という言葉は聖書独特の表現だと言えますが、詩編31編1節をみて見ますと、新共同訳は2節になりますが。
口語訳「主よ、私はあなたにより頼みます/としえに私をはずかしめず/あなたの義をもって私をお助け下さい」。
新共同訳「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。」
また、イザヤ59章17節では、口語訳「主は義を胸当てとしてまとい」とあり、新共同訳は「主は恵みの御業を鎧としてまとい」と訳しています。このように「義」という言葉を新共同訳では「恵み」と訳していますし、詩編から考えますと、「義」という言葉を、神の恵みの御業として捉えていると見ることが出来ます。

 旧約聖書のルツ記には、ボアズの畑に行って落ち穂を拾うルツの姿があります。ミレーの「落ち穂拾い」は有名な絵画ですが、昔、イスラエルには貧しい者たちのために、畑の麦をきれいに刈り取ってしまうのではなくて、貧しいものたちが後から来まして拾うことが出来るようにと、意識的に残しておいたのです。これがイスラエルの正義であったのです。

 「義」を「恵みの御業」として捉えるわけですが、パウロはローマ3章22節で「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」と語っています。ですから「義」には、神との正しい関係をも意味している面もあります。その正しい関係をイエスが与えて下さったのです。それが福音なのであり、それこそ恵みの御業の内容なのです。

 罪に苦しんだルターは、福音を再発見したわけですが、ローマ1章17節に、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」。神が御子イエスをこの世に送り、私たちの罪の裁きとして御子を十字架につけられて、私たちの身代わりとされました。そして三日目に甦られて、永遠の命を私たちに備えて下さいました。そのような神との正しい関係を得るためには、私たちの何かではなくて、ただ神の恵みの御業を、信仰をもって受け入れるだけだということです。この神の正義によって私たちは救われたのです。

 “正義”、それは小さい者への憐れみであるならば、この世界は神の御旨から大きくずれていると言わざるを得ない。そうした中で、教会の交わりこそ、正義とは何かを世に示していける器であり、また、そうあり続けたいものである。

投稿者: 日時: 22:23 |