2008年04月のアーカイブ

言葉をどう受け止めるのか

 兵庫県芸術文化センターで行われたVokal Akademie Master Klass特別演奏会に家内と共に行きました。体全体から声が出てくる感じで、訓練された人間の声の素晴らしさを、歌声の素晴らしさを十分に味わうことができました。歌われていた言葉はドイツ語であったが(パンフレットに歌詞の内容の説明があった)、言葉の理解が十分でなかったとしても人に感動を与えます。

 「金木犀の香る日」という書物の中に、兄を交通事故で亡くした小学生の弟が書いた詩が載っていました。「カバン」という題、「お兄ちゃんの机の上に/ぽつんとカバンがおいてある/自転車に乗って/このカバンをひもでつけて/元気に学校に行ったお兄ちゃん/卓球がとくいで/二年生のキャプテンだったお兄ちゃん/宿題をやらないで/お母さんに/おこられていたお兄ちゃん/ぼくにとって/たった一人のお兄ちゃん/ぼくはお兄ちゃんと/卓球をやりたかった」。「死」という言葉はないですけれども、亡くなった兄に対する思い、その無念さが伝わってくる。事故を起こした人は真面目に保護観察を受けているようですが、ちっとした不注意から取り返しのつかない事故を起こしてしまいます。この詩をその人が読んだとしたらどうだろう。自ら起こした事故の大きさに愕然とせざるを得ないだろう。「言葉」とは想像を引き起こし、疑似体験をさせてくれます。また事故を起こした者にとっては体験をさらに深めていくことにもなります。そこに何かが生まれ、何かが変わります。それが「言葉」の力だといえます。

 数日前から読み出した本に「禅キリスト教の誕生」というのがあります。「禅」というのは仏教の禅宗系の宗派で修業の一つとして行われるものだと思いますが、しかし「禅」そのものは他宗教にも利用できる側面をもっているようです。ヨーロッパではかなりの数の禅道場が出来ているようです。善をキリスト教にフィードバックしていくのだが。自分と向き合い、思索を深めていきます。私は読み始めたばかりなので、今のところ何とも言えないのだが、おそらくヨーロッパ・キリスト教の「教会の言葉」、伝統の中に培われてきたものに対する行き詰まり、あるいは重圧というものを感じているのかも知れません。座禅を経験した者によると、キリスト教から完全に離れてしまうのではなく、キリスト教の言語の理解が深まったとか、祈りが深まったということもあるようで、体験的に神を捉え、キリストを捉え、教会を捉えようとしているのかなとも思ったりします。「座禅」! 問題を感じるのだが、ともかくも聖書の御言葉の理解を深める機会になればと願います。

 しかし気にくわないかも知れないが、聖書は読み、調べ、黙想し思い巡らすことが大事だと思います。それは単なる「知」の営みではなく、乾いた土地に水が流れていくとき、見る見るうちに土の中に水が吸い込まれていくように、聖書の言葉がその人の中にしみこんでいくためです。ルカ8章21節に「するとイエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった」と書いています。ルカは神の言葉が種として蒔かれた、その種をどのように受け止めるべきかを語った譬え話しの締めくくりとしてイエスの母と兄弟の話しを記しています。語られた言葉をどう受け止めるか、受け止める側のあり方、姿勢と言うものが、その言葉が生きてくるのか死んでしまうのか、鍵を握ることになるようです。

 子を気遣う親の語りかけの言葉のように神は語られる。それを人の言葉を介して聞えてくるのだが、いや、だからこそ面白い。神の語りかけとして聞きたいものだ。

投稿者: 日時: 18:24 |

チューリップ

 昨日、4月15日はこひつじ園の入園式。15名の子供たちをまず迎えたのは教会の玄関にあるチューリップ。この季節の代表的な花だ。卒園していった子供たちのことを思うと、改めて入園してきたこどもたちを見て、この一年間の成長は大きいと思う。子供たちを迎えたチューリップも大きく育った。

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 さて、チューリップといえばオランダを思い起すが、原産地はトルコだそうだ。12世紀に十字軍がイタリアにもたらしたと言われている。記録上では、1554年、トルコ駐在オーストリア大使ブスベックという人がウィーンにもたらしたのが最も古い。その後、スイスの植物学者ゲスナーがフッガー家の要請で、1561年に球根をアウグスブルグに移植した。その後、オランダに伝えられ、変種作りが盛んになり、チューリップが流行した。特に1634年~1637年の熱狂ぶりは「チューリップ狂騒事件」と言われ、チューリップが投機の対象になりました。ちなみに日本には文久年間(1861年~1864年)に伝えられている。

 チューリップの歩みは戦争に巻き込まれけ、権力者に、そして金儲けに利用されました。しかし多くの人々に愛されて世界中に広がりました。オランダの球根生産品種登録リストには2,500種が載っており(1981年現在)、日本では300品種(1982年現在)が球根生産されているそうだ。ここまでチューリップは豊かな広がり、世界の花となってきた。チューリップの花壇をオートバイで走り回り、多くのチューリップを折ってしまった心無い者もいるが、チューリップは更に多くの人に愛されていくだろう。

 ダライ・ラマ14世が渡米の途中で日本に立ち寄って記者会見をした。中国は、ダライ・ラマを悪魔呼ばわりし、チベットの暴動は彼の煽動だと非難するが、ダライ・ラマは「悪魔かどうか皆さんが判断してください」と言い、角があるかどうかと、指で角のようにして、おどけて見せた。オリンピックの開催には賛成し、暴力を否定する。しかし意見を表現する自由は止められないとも述べている。中国よりもダライ・ラマの方がゆとりがあり、したたかであると思う。そこには歴史的に、抑圧されてきた人々が解放される歩みを人類がなしてきた、その良識への信頼か、彼の信仰から来る確信か。ともかくも大国に対して小さいが、大きく豊かに咲いている。

 子どもたちにどのような人生が持っているのか分からないが、チューリップのごとくに豊かにいんな色で、そしてしたたかに花を咲かせて欲しい。チューリップが多くの人に愛されてきましたが、彼らを愛してやまないイエス様を伝えていきましょう。

投稿者: 日時: 09:20 |

花見

 4月6日に婦人会と壮年会で「花見昼食会」を行いました。以前は婦人会だけで行っていたのですが、昨年からでしょうか一緒にするようになりました。

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 しかし考えてみると日本人は桜が好きですね。どうしてだろうかと思いますが。江戸時代には落語などにも出てきますが、庶民の間でも花見は盛んだったようですが、元々は貴族たちの遊びだったようです。平安時代は春と秋に貴族たちが花見を楽しんだようです。

 桜は10種類の自然種をもとに、変種や栽培によるものなど200から300種類ぐらいあるそうです。古くは奈良時代から栽培されていたようです。「西宮舞桜」という名前のついた桜もあるそうです。

 この桜が日本人の精神性とつながり、桜が忠義愛国のシンボルとされて、多くの若者たちが特攻隊として送り出されて行った過去もあります。そこには学問的根拠もなく桜が日本固有の花として考えられ、国花として考えられてきたことがあるように思われます。桜は中国にも小アジアにも東ヨーロッパにも自生しているようなのでが、明治国家のオピニオン・リーダーたちが脱亜入欧政策の一環として国花は桜ということを植え付けたのである。

 桜はどうして日本固有のものだと考えるようになったのか。「古事記」に「爾(ここ)に『誰か女ぞ』と問ひたまえば、答え白ししく、『大山津見神(おおやまつみのかみ)の女、名は神阿多都比売(かむあたつひめ)、亦の名は木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と謂う』とまをしき」とありますが、この「このはなのさくやびめ」の「さくや」が転化して「さくら」になったのだから、神代に桜が存在したのだ。だから桜は日本固有と主張されてきた面があったようです。それを言ったのが本居宣長だということです。その他「日本書紀」にも天皇の宮殿が「稚桜宮」と呼ばれたと出てくるようだが、しかし、それで日本固有とはいえないようにも思います。ただ、権力と桜が結びついたと思われる。

 ともかくも桜の美しいのは絶対のようだ。西行法師のうた「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」「ほとけには桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば」。世界の花として桜を楽しむ心があるように思います。桜が狭小な志向を生んで行くようなナショナリズムと繋がらない事を願います。

 抗議の中の聖化リレー、民族が他の民族を抑圧する事は許されないことだ。すべては神の作品なのだから。

投稿者: 日時: 23:36 |

ボウリング

教会学校の教師が主体になってボウリング大会を行いました。中高含め十数名の方々が参加をしました。三位までの賞品を用意して、一年に一度の事ですが楽しい一時でした。

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 ボウリングといえば、いつごろから始まったのか、その起源はかなり古そうだ。ものの本によるとローマ時代にはヨーロッパ全土に広がっていたようで、もともと石をころがすような単純な遊びから始まっているようだ。また、こんな話しもある。ドイツの農民が持ち歩いたこん棒を立てて、石を投げつけるケーゲルンというのが直接の原型とも言われている。14世紀頃にはかなり流行したようで、フランスのシャルル5世やイギリスのエドワード3世などが禁止令を出している。賭け事なども行われたようだ。ただ面白いのは、修道院などで、棒が倒れるかどうかで、罪人を判定したとも言われている。そういう意味で単なる遊びではなく、占いにも使われていたことになる。しかしそんなことで罪人とされてはかなわない。

 マルティン・ルターももとは修道士をしていたので、ひょっとしてボウリングをして罪人かどうかを判定したのかもしれない(そんな話は聞いたことはないが)。しかしボールの投げ手の技術によって、どれだけピンが倒れるのか、ある程度決まってくるのし、またそこに偶然性も働くのだが、ただ、それによって罪人かそうでないと判定されるのは、たいへんなことである。ひょっとしてその背景に、当時の人々が持っていた神観というものがあるのかも知れない。

 ルターが次のことを言っています。
「いかに欠点のない修道士として生きていたにしても、私は、神のまえでまったく不安な良心をもった罪人であると感じ、私の償いをもって神が満足されるという確信をもつことができなかった。だから私は罪人を罰する神の義を愛さなかった。いや、憎んでさえいた。・・・」と魂の苦悩を語っている。しかしルターはそこに留まらない。新たな信仰発見へと向かう。

 「だが、神は私を憐れんでくださった。私は『神の義は福音の中に啓示された。義人は信仰によって生きると書かれているとおりである』という言葉のつながりに注目して、日夜たえまなくそれを黙考していた。そのとき私は、神の義によって義人は賜物を受け、信仰によって生きるという具合に『神の義』を理解しはじめた。これこそまさしく、神の義は福音によって啓示されたということであり、神はその義により憐れみをもって信仰により私たちを義としてくださる、という具合に受動的義として理解し始めたのである。まさに『義人は信仰によって生きる』とあるとおりである。今や私はまったく新しく生かされたように感じた。戸は私に開かれた。私は天国そのものに入った」と信仰によってのみ救われる、その福音を見出した魂の喜びを語っています。(「マルティン・ルター原点による信仰と思想」より)

 当時の人々はボウリングのピンが倒れるごとに恐怖心が起こってきたかもしれませんが、今や私たちはピンが勢いよく倒れる事に喜び楽しんでいる。ちなみに私は賞を取れなかったが、教会の人たちと楽しいひと時を持てたことに嬉しい。なんという私たちに与えられている自由な交わりか。

投稿者: 日時: 16:56 |