言葉をどう受け止めるのか

 兵庫県芸術文化センターで行われたVokal Akademie Master Klass特別演奏会に家内と共に行きました。体全体から声が出てくる感じで、訓練された人間の声の素晴らしさを、歌声の素晴らしさを十分に味わうことができました。歌われていた言葉はドイツ語であったが(パンフレットに歌詞の内容の説明があった)、言葉の理解が十分でなかったとしても人に感動を与えます。

 「金木犀の香る日」という書物の中に、兄を交通事故で亡くした小学生の弟が書いた詩が載っていました。「カバン」という題、「お兄ちゃんの机の上に/ぽつんとカバンがおいてある/自転車に乗って/このカバンをひもでつけて/元気に学校に行ったお兄ちゃん/卓球がとくいで/二年生のキャプテンだったお兄ちゃん/宿題をやらないで/お母さんに/おこられていたお兄ちゃん/ぼくにとって/たった一人のお兄ちゃん/ぼくはお兄ちゃんと/卓球をやりたかった」。「死」という言葉はないですけれども、亡くなった兄に対する思い、その無念さが伝わってくる。事故を起こした人は真面目に保護観察を受けているようですが、ちっとした不注意から取り返しのつかない事故を起こしてしまいます。この詩をその人が読んだとしたらどうだろう。自ら起こした事故の大きさに愕然とせざるを得ないだろう。「言葉」とは想像を引き起こし、疑似体験をさせてくれます。また事故を起こした者にとっては体験をさらに深めていくことにもなります。そこに何かが生まれ、何かが変わります。それが「言葉」の力だといえます。

 数日前から読み出した本に「禅キリスト教の誕生」というのがあります。「禅」というのは仏教の禅宗系の宗派で修業の一つとして行われるものだと思いますが、しかし「禅」そのものは他宗教にも利用できる側面をもっているようです。ヨーロッパではかなりの数の禅道場が出来ているようです。善をキリスト教にフィードバックしていくのだが。自分と向き合い、思索を深めていきます。私は読み始めたばかりなので、今のところ何とも言えないのだが、おそらくヨーロッパ・キリスト教の「教会の言葉」、伝統の中に培われてきたものに対する行き詰まり、あるいは重圧というものを感じているのかも知れません。座禅を経験した者によると、キリスト教から完全に離れてしまうのではなく、キリスト教の言語の理解が深まったとか、祈りが深まったということもあるようで、体験的に神を捉え、キリストを捉え、教会を捉えようとしているのかなとも思ったりします。「座禅」! 問題を感じるのだが、ともかくも聖書の御言葉の理解を深める機会になればと願います。

 しかし気にくわないかも知れないが、聖書は読み、調べ、黙想し思い巡らすことが大事だと思います。それは単なる「知」の営みではなく、乾いた土地に水が流れていくとき、見る見るうちに土の中に水が吸い込まれていくように、聖書の言葉がその人の中にしみこんでいくためです。ルカ8章21節に「するとイエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった」と書いています。ルカは神の言葉が種として蒔かれた、その種をどのように受け止めるべきかを語った譬え話しの締めくくりとしてイエスの母と兄弟の話しを記しています。語られた言葉をどう受け止めるか、受け止める側のあり方、姿勢と言うものが、その言葉が生きてくるのか死んでしまうのか、鍵を握ることになるようです。

 子を気遣う親の語りかけの言葉のように神は語られる。それを人の言葉を介して聞えてくるのだが、いや、だからこそ面白い。神の語りかけとして聞きたいものだ。

投稿者: 日時: 2008年04月30日(水) 18:24