2008年03月のアーカイブ

卒園した子どもたち

こひつじ園は22回目の卒園式を迎えることになりました。考えてみますと、週2回の保育で、公的な園でもないのに、定員の16名がいつも与えられて今日まで続けられてきました。これもお母さんたちの支持を得てのことであります。三歳児のナースリーですが、幼稚園に行く前の段階として、週2回で、それもお二人の先生による家庭的で、子ども一人一人とのかかわりを大切にしてきたからだと言えるのかもしれません。教会として何らかの役割をこの地域にあって果たしてきたと思っています。

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 先日、お別れ会をしました。お母さんたちが色々と準備をしてくださって、ゲームをして楽しく過ごしました。

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ゲームだけではなく、会食の準備もしてくださいました。美味しく食べ、楽しいお交わりの時を持ちました。

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 3月21日に卒園式を行い、16名の子どもたちが卒園して、それそれ新しい幼稚園や保育園へと行きます。そこでまた新しい出会いを子どもたちはするでしょう。そして更に成長することでしょう。上の写真は、お母さんたちが記念品として私たちに下さったもので、お母さんや子どもたちの言葉が記されています。
 これを読むと嬉しくもあり、また少しはずかしい思いもします。ある子どもにとって私は気になる存在であったようです。また別の子にとっては、どうも牧師は謎めいていたようです。まだその謎は解けないようです。更に何人かの子にとっては、つき一度の私の聖書の話しが楽しみだったようで、中にはお母さんにどんな話だったかをいつもおしえていた子いたようです。いや、下手な話だったのですが・・・・嬉しいですね。心の片隅にでも残り続け、子どもたちの魂の糧となればと願っています。また「母親教室」でのお話しもお母さんたちも真剣に聞いてくださったようで感謝です。

投稿者: 日時: 22:24 |

入学・卒業

 3月を迎えて、卒業式、入学式と子どもたちの成長を覚える喜びの季節となりました。当教会のこひつじ園も卒園の準備で忙しくしています。教会はそれとともに復活祭を迎え、皆と一緒に喜び祝おうとしています。
 
 旧約聖書の世界であるパレスチナでは、季節は夏と冬の繰り返しと言えるかもしれません。地中海気候の影響で、夏は乾燥で、冬に雨が降ります。「地の続く限り、種蒔きも刈りいれも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」(創世記8章22節)。この季節の循環は神が人間に必要なものを備えるためであるといえます。

 旧約聖書の申命記11章:14節に、「 わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある」という言葉がありますが、ここに「秋」とか「春」と訳されていますが、本来の意味は「初めの」と「後の」という言葉で、旧約聖書には「秋」と「春」という言葉はないのです。「初めの雨」というのは10月~11月ごろに降る雨で、「後の雨」というのは3月~4月ごろに降る雨です。このように旧約聖書は「雨」ということを中心に季節を語っているところがあります。即ち「冬」を中心に考えているのです。なぜかというと、冬に雨が降り、収穫が得られるからです。日本人と感覚が違います。

 だからと言って、秋と春がないわけではなく、短いがあります。現代ヘブライ語では春のことを「アビブ」というのだそうだが、もともとは3月か4月頃の月を表す言葉のようだ。その頃に「過ぎ越しの祭り」というのがあります。これは昔、イスラエルの民がエジプトで奴隷とされていたその地から脱出したことを記念した祭りです。イスラエルではこの春から新しい年が始まります。この時期を表す言葉に「リトゥシェヴァト ハシャナー」というヘブライ語があります。「春」と訳されることもありますが、「年の立ち返り」という意味で、日本で言えば「新春」ということです。でも、この「過ぎ越しの祭り」が彼らの民族としての原点なのです。その祝いから年が始まります。

 そして「秋の雨」、10月~11月ごろには「仮庵の祭り」というのがあります。これは収穫の時期です。詩編4編8節「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを/わたしの心にお与えください」とあります。収穫期の喜びは、心の満たし、魂の喜びを求めています。

 旧約聖書の人々は冬を中心に、雨を中心に自分たちの生活を考えています。そこには初めがあり終わりがあります。そこには芽生えの春があり、喜びの収穫である秋もあります。その生活の営みのもとに信仰の根を降ろしました。極めて短いが大切な春と秋があります。今の私たちにとって、命の芽生えである春には復活祭があります。それは希望に始まり、秋は、人生を収穫していく季節でもあります。人生には初めがあり終われがあります。旧約聖書の人々はそのことを明確に見定めながら生きたのです。入学と卒業、そんなことを考えてしまいます。
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写真は、シクラメンの花です。教会の玄関で昨年の冬から置かれていて、春に至りました。

投稿者: 日時: 13:51 |

ものごとは考えよう?

 よくものは考えようだといいます。確かに物事をどう解釈するかということによって事態は大きく変わっていくということがあります。
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 例えば、俗に言われることですが、キリスト教というのは旧約聖書を土台にして生まれてきたといいます。しかし旧約聖書を元にして生まれてきた宗教にユダヤ教やイスラム教もあります。しかし、なぜこんなにも違うのでしょうか。それは旧約聖書の読み方が違うからだと言えます。

 では、イエス様はどのように読んだのでしょう。ルカ7章22節でイエス様は救い主のしるしとして六つの出来事を挙げています。六つの項目を挙げています。「目の見えない人」が見える。「足の不自由な人」が歩く。「重い皮膚病を患っている人」が清められ。「耳の聞こえない人」が聞こえ。「死者は生き返る」。「貧しい人」が福音を聞きます。

 これは、例えば、旧約聖書のイザヤ35章5節~6節、「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。その時、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」。そして61章1節~2節、「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私を捕らえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために、主が恵みをお与えになる年」と書かれています。

 イエス様はそのような言葉に目を留め、神様は高きにおられる方だけれども、このように小さき者に目を留められる方だという一面から、角度から読まれたのです。ですからご自身が神の子として遣わされたとき、自ら身を低くされ、十字架の死に至るまでも低くなられて、人間の救いを完成されました。ここに愛に生きるという姿勢が生まれてくるのです。

 パウロは、イスラエルの民が福音を受け入れなかったことについて次のように言っています。新約聖書のローマ11章11節「ユダヤ人が躓いたことは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりました」と言っています。更に彼らも福音を受けられるようになれば、なんと素晴らしい事だろうというようなことも言っています。マイナスをプラスとして捉え、同胞も必ず福音を受け入れる時がくることを信じて、パウロは福音を伝える使命に生きました。

 事態をどのように受け止め、理解し、対処していくのか大事なことです。人生には様々なことがあります。特にマイナス的なことが起こった時が大変です。他人のせいにしたり、社会のせいにしたりしながら、不満を持ちながら生きてしまいますが、しかし自分自身のあり方によって事態が変わっていくことってあると思います。信仰というのは、そんなことも起こしてくれます。

投稿者: 日時: 14:20 |