ボウリング

教会学校の教師が主体になってボウリング大会を行いました。中高含め十数名の方々が参加をしました。三位までの賞品を用意して、一年に一度の事ですが楽しい一時でした。

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 ボウリングといえば、いつごろから始まったのか、その起源はかなり古そうだ。ものの本によるとローマ時代にはヨーロッパ全土に広がっていたようで、もともと石をころがすような単純な遊びから始まっているようだ。また、こんな話しもある。ドイツの農民が持ち歩いたこん棒を立てて、石を投げつけるケーゲルンというのが直接の原型とも言われている。14世紀頃にはかなり流行したようで、フランスのシャルル5世やイギリスのエドワード3世などが禁止令を出している。賭け事なども行われたようだ。ただ面白いのは、修道院などで、棒が倒れるかどうかで、罪人を判定したとも言われている。そういう意味で単なる遊びではなく、占いにも使われていたことになる。しかしそんなことで罪人とされてはかなわない。

 マルティン・ルターももとは修道士をしていたので、ひょっとしてボウリングをして罪人かどうかを判定したのかもしれない(そんな話は聞いたことはないが)。しかしボールの投げ手の技術によって、どれだけピンが倒れるのか、ある程度決まってくるのし、またそこに偶然性も働くのだが、ただ、それによって罪人かそうでないと判定されるのは、たいへんなことである。ひょっとしてその背景に、当時の人々が持っていた神観というものがあるのかも知れない。

 ルターが次のことを言っています。
「いかに欠点のない修道士として生きていたにしても、私は、神のまえでまったく不安な良心をもった罪人であると感じ、私の償いをもって神が満足されるという確信をもつことができなかった。だから私は罪人を罰する神の義を愛さなかった。いや、憎んでさえいた。・・・」と魂の苦悩を語っている。しかしルターはそこに留まらない。新たな信仰発見へと向かう。

 「だが、神は私を憐れんでくださった。私は『神の義は福音の中に啓示された。義人は信仰によって生きると書かれているとおりである』という言葉のつながりに注目して、日夜たえまなくそれを黙考していた。そのとき私は、神の義によって義人は賜物を受け、信仰によって生きるという具合に『神の義』を理解しはじめた。これこそまさしく、神の義は福音によって啓示されたということであり、神はその義により憐れみをもって信仰により私たちを義としてくださる、という具合に受動的義として理解し始めたのである。まさに『義人は信仰によって生きる』とあるとおりである。今や私はまったく新しく生かされたように感じた。戸は私に開かれた。私は天国そのものに入った」と信仰によってのみ救われる、その福音を見出した魂の喜びを語っています。(「マルティン・ルター原点による信仰と思想」より)

 当時の人々はボウリングのピンが倒れるごとに恐怖心が起こってきたかもしれませんが、今や私たちはピンが勢いよく倒れる事に喜び楽しんでいる。ちなみに私は賞を取れなかったが、教会の人たちと楽しいひと時を持てたことに嬉しい。なんという私たちに与えられている自由な交わりか。

投稿者: 日時: 2008年04月03日(木) 16:56