2008年02月のアーカイブ

こころの溜池

 貧しい人々、働いても最低水準の収入すらも得られないような人々、ワーキング・ブアと呼ばれる人々の支援活動をしている、あるNPOの代表の方がいわれていた言葉に「溜池」ということがあります。正確な言葉ではありませんが、確か“貧困フェスタ”というようなお祭りを、既に済んでいると思いますが、計画していることを聞きました。「祭り」と聞きますと何か楽しい雰囲気があります。しかしそこに参加する人々は日常においてはかなり深刻なところがあります。しかしそのフェスタに参加することによって、どこか心に「ゆとり」を持てたら、ということのようです。当然そこに横のつながりも生まれるでしょう。その方の言われることは、経済的にも、精神的にも、社会が溜池を持つことだというのです。

 「溜池」というのは、畑のために普段から水を用意しておく池です。そのようなゆとりが必要だというわけです。確かに、格差社会の中で人々は行き詰まり、時には自殺まで追い込まれる人がいます。もし、そこに少しでも「ゆとり」があれば、死なないですんだかも知れません。経済的な事柄に限らず心に「溜池」を持つことは大切なことだと思います。

 最近、「スピリチュアリティ」という言葉を新聞などでも見るが、もともと宗教性のある言葉です。しかし宗教性の薄い日本では、生きる意味などの答えをスピリチュアルなテレビ番組などに求めたりします。そこで先祖などとのつながりが説かれたりしますが、「つながり」とか「結びつき」ということが支えとなることがあります。旧約聖書を読んでいても、「死んで先祖に加えられた」という言葉を何度か見ます。死とは孤独なものですが、しかしそれが先祖とのつながりの中で捉えられるとき、何か安らぎが与えられます。

 世界遺産に加えられた白川郷の合掌造りの家は、豪雪地帯もあって屋根は鋭くとがっていますが、30年おきぐらいに屋根が葺きかえられますが、その時には村人たちが協力して、一つひとつの家の屋根を葺きかえていきます。ですから白川郷には「結」という思想があります。民俗学の考え方の中に「ハレ」と「ケ」というのがあります。「ハレ」は祭りで「ケ」は日常のことです。より良い「ケ」のために「ハレ」があります。「ハレ」は神事でありますが、その営みの中で人とのつながりが強くされ、「ケ」である野良仕事での協力ということにもつながっていくのではないかと思います。

 その人との「結びつき」が、人の「溜池」となっていくのではないかと思います。受け入れられ、赦され、支えられる。今日ではその「結びつき」が希薄になっています。家庭もそうですが、だからこそ犯罪も凶悪化するのではないか、と思います。

 イエスの譬え話しに「四つの種の話し」があります。農夫によって蒔かれた種は飛んでいきます。道端。その種は鳥に食べられます。岩地。土がなく強い日差しで枯れます。茨の中に落ちた種は、陰のために成長をしません。そして良い地に落ちた種は豊かに実を結びます。しかし種そのものには何の違いはありません。たまたま運が良かっただけです。その種が優れていたわけではありません。それなのに他の者たちは人間扱いをされません。罪人だから神に見捨てられたと言われます。努力しないから、能力がないから、そういう羽目にあうと言われます。しかしイエスはそのような彼らと食事をし、交わりを持ち、彼らをかけがえのない人間として接し、結びつきをもちました。そのようにして道端から畑に戻し、覆い塞ぐ茨を取り除くために棘の中に身を置き、友となり、不条理を共に怒り、共に泣きました。そのようにして道端や岩地や茨の地に落ちた種の「溜池」そのものにイエスはなってくださいました。

投稿者: 日時: 00:22 |

久々の雪景色

 2月9日(土)、久しぶりしぶりに雪が降りました。教会の窓から見るといったいが雪に覆われています。明日は礼拝で、このままやまずに夜になれば、道路が凍結し、明日は来られない人が何人かいるだろうと思っていましたが、翌日には晴れて、普段と変わらない礼拝でした。ただ、奈良から来られる方もいて、その方は行かれないとの連絡がありました。
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 私の記憶によると、これだけ雪景色になるのは何年ぶりか、東鳴尾に遣わされて今年で20年目になりますが、遣わされて初めての冬で、これぐらいに積もったのを覚えています。そしてもう一度あったと記憶していますが、おそらく17~18年ぶりではないかと思います。雪になれない都会の人間には、こんな雪景色を見るのには嬉しいことですが、しかし電車が止まり、道路が凍結し、通勤や通学に多くの人が苦労したでしょう。

 ニュースによると中国では、大寒波が襲い、大変な被害がでたそうです。亡くなった人も大分おられたようです。気候が大きく変化するのも温暖化の影響ともいいます。自分たちが暮らしている地球ですから、自分たちで大切にしないといけませんね。

 そう、私たちの教会のメンバーの一人が勤務先の前で滑って転んだと言います。普段はかっこいい彼ですが、その姿を想像して少し滑稽に思いましたが、背広はびしょぬれ、怪我をしなくて良かった。後が大変だったでしょう。

 今年の冬の一コマですが、今年の夏は暑いと誰かが言っていましたが、どうなるのか分かりません。毎年、同じように繰り返されていくと思われる自然の営みも、少しずつ変わってきています。先の読めないのが今の時代なのかも知れません。自然がうめくような声で人間に訴えている、そんな声が聞こえないだろうか。自然に聞く、人に聞く、そう、山の自然の中に入っていく時、人は腰を曲げて登っていく。その腰を曲げるような低さ、人としての姿勢が必要なのかも。

投稿者: 日時: 09:26 |

言葉が生きる関係を

 世の中には言葉で勝負をする仕事というのは様々あります。作家とか、落語家とか、カウセラーとか、それに宣教師や牧師もそうです。

私は本が好きで読みますが、年とともに根気がなくなってきましたが、しかしできるだけ暇を見つけては読むようにしていますが。何でも読むというわけでもなく、特にキリスト教関係で、好んで読むのは日本の教会の歴史に関することです。そして必要に迫られて読むのが聖書の注解書や講解書です。そしてトピック的に興味をもって時々読むのがキリスト教の思想関係や宣教学関係です。

私はそんな本を読んでいて時々、著者の誠実さを感じることがあります。例えば、あるコメンタリーを読んでいて、若い時に書いたことと、ある年齢になって書いたこととが、同じ事柄でまったく異なる意見を述べていたのですが、私は若い時に書かれたという本は知りませんが。読んでいて、若い時はこのような意見だったけれども、年老いてから若い時に書いたことを、こういうことで修正せざるを得ない、と語っているのです。言葉に生きる者としての誠実さを感じました。

人によっては時と状況によって言うことが、ころころと自らの保身のために風見鶏のように意見が変わるという人がいます。変わるのは本人の勝手だと言えばそうですが。しかしそれではその人の言葉が信じられなくなります。その言葉を吐いているその人自身を信じることが出来なくなります。その人が、どのようないい話をしても、どのような良い説教をしたとしても、私はその人の言葉を信じません。

 言葉というのは、関係を生み出していく単なる道具ではありません。その人が語る言葉を通して、その人自身の人格というものがそこに表されているのです。言葉には命があるのです。言葉を通して関係を生み出し、その関係の中から何かが生まれることがあるのです。生み出されていくものがあるのです。その言葉が信じられなくなったとき、そこには荒涼とした荒野が広がるだけです。まさに死の世界です。何も生まれてきません。私はそんなことを言葉に生きる者たちの間にあってふと思うのです。

 聖書にとって言葉とは重要な意味を持っています。新約聖書のヨハネ伝の初めには「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り、主イエスを「言葉」と表現しています。この言葉は、旧約聖書の創世記の初めで神は、言葉をもって世界を創造されたと伝えています。「光あれ」といわれると光が生まれました。その言葉そのものである主イエスを信じる者に永遠の命が与えられるのです。主イエスの言葉は人の罪を赦し、命を与えてくださいます。私たちはその福音を伝えているのです。
旧約聖書のイザヤ55章10節と11節「雨も雪も、ひとたび天から降れば、空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も空しくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」とあります。言葉にはこれほどの力があります。命があります。

 人を生かし、命をもった言葉が生まれてくる、そんな人間関係が一つでも生まれることを願います。

投稿者: 日時: 00:32 |

冷凍食品

 今、中国製の冷凍ギョーザの安全性が問題になっています。どうして農薬が混入したのか、人為的かそれともミスか。そしてどこで入ったのか。よく分かっていない。この出来事を通して色々なことを私たちは考えたと思います。

 ちなみに我が家の冷蔵庫をのぞいてみると、やはり、「冷凍ギョーザ」はないが、冷凍食品はあります。子どもたちが会社や学校に弁当を持っていくので便利なもののようだ。今では私たちにとって冷凍食品は欠かせないものなのかも知れません。いや、それだけではありません。現在の日本の食糧自給率は39パーセントだといわれます。20年以上前では自給率が70パーセント代であったといいます。それだけ外国から食糧を買うほど経済的に豊かになったと言えるのだが。

 今、穀物に関係する食品が値上がりしているようです。私たちの教会では毎週昼食にうどんを出していますが。店も頑張ってくれて、何十年と同じ値段で、ある店からうどんの玉を買っています。しかし最近は、少し玉が小さくなったかな、と感じると家内の言葉です。値上がりは穀物の取り合いが世界で起こっているためでしょう。

 地球の温暖化と、毎日のように聞く言葉ですが、それが更に進めば、食糧の危機を迎える時がくるかも知れません。そんな時、輸入に頼っている日本ではどういう状況になるでしようか。容易に想像がつきます。

日本は、食べ歩きの番組が多くあるように、食べ物が満ちている国です。しかしその多くを輸入に頼っているその豊かさは「砂上の楼閣」だと言えます。ひょっとして、私たちの食卓が、もう一度貧しくなる時代を迎える時がくるかも知れません。そうならないように願いますが。その時、その食卓にどれだけの人が絶えられるだろうかと思います。今、私たちはふと立ち止まって、自分の生き方を考えてみる必要があるかも知れません。

 新約聖書のマタイ伝6章26節「 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」という言葉がありますが、神様が必要なものは備えてくださる、という視点にたってみてはどうだろうか。私たちの生活も少しはスリムになるかも知れません。

投稿者: 日時: 23:33 |