2008年01月のアーカイブ

言葉が生み出される背景

私たちの教会の属している群れの中のひとつの教会が会堂を改装することになった。ちなみ私たちの教会も2年ほど前に改装をしている。このために教会は多額の出費をすることになり、これは大変なことです。
 数週間前、ある用事である神社の社務所に行く機会がありました。神社の社務所に入ったのは始めてのことだが、かなり古く傷んでいる様子でした。部屋に案内していただくと、天上は染みだらけでした。恐らく雨漏りが長くしていたのだろう。小さな神社であったので、維持が難しいのかも知れない。

 神学生時代に、創価学会やPL教団の本山や高野山を見学にいったことがある。それぞれ立派な建物がたてられていました。PL教団だったろうか、とても大きなパネルが張られた大きな部屋がありました。そこにはローマ法王がPL教団を訪問した時と思われる写真を大きく引き伸ばして張っていました。宗教を異にするカトリックの頂点に立つ者の写真を何のために張っているのだろうかと、それも大きなパネルにしてと、ふと考えさせられました。そのローマカトリック教会の総本山であるバチカンにあるサンピエトロ寺院もとても大きく立派な建物です。それを建てるために免罪符が売られたのです。

 これは建物ではないが、私が神学校の卒業論文にキリシタン関係の論文を書きました。その準備の段階で資料を集めるのに苦労をして、あちらこちらの図書館、国会図書館からも資料を取り寄せたりしました。資料を探している時に、どうしても必要な資料が天理図書館にあることが分かりましたが、恐らく天理図書館に行っても私が必要としている書物に直接触れることはできないだろうと思っていましたが、しかし、それを全文載せている雑誌、天理図書館が所蔵しているのを紹介している雑誌があり、それが大阪市立図書館にあることを突き止めまして、そこでコピーを取る事が出来ました。それにしても天理図書館はたいへん貴重な書物を収拾しています。先ほどのローマカトリックの総本山であるバチカンにも、貴重な美術品や書籍などがあります。

 宗教とは何だろう。いわゆる聖人と呼ばれるような人々、例えば、アシジの聖フランシスコなどは清貧の生活をしました。富も名誉も高価な服も貴重な書籍も、そして立派な建物も彼は必要とはしませんでした。目に見えないものに目を向けていく、そこに希望を見出していく。目に見えないものとは神を指します。ですから極めて精神性といいますか、外側のことよりも内側のことが重視されるのですが、その宗教というものが、大きくなり、組織立てられてくると、荘厳な建物、そして貴重な宝物を必要とされてくるのです。即ち外側のものを必要としてくるのです。

 外側のものを必要とする、それは「権威づけ」ということだろうと思います。その権威に人は引き付けられます。ある高名な牧師が言いました、「会堂にも伝道してもらわなければ困る」と。その先生の教会は立派な会堂が建っています。確かに人はみすぼらしいところには行きたいとは思わないでしょう。

 人は権威を必要としているのかもしけません。目に見えるものや理性で納得できる権威というものによって、自分を支えていく。福音書の中で主イエスに人々が奇跡を求めたことが語られているが、そのことが信じる根拠になると人は思いやすい。しかし人々の心を捉えたのはイエスの教えでした。そう言葉でした。魂を捉える言葉であったのです。その主イエスの言葉の背後には、人のために自らの命も惜しまず献げる愛の神としての姿があります。目には見えないが、聖書を通して2000年にわたって伝えられ、どれだけの人々が彼の言葉で慰められ、励まされ、命を回復してきたことだろうか。

 言葉で勝負する仕事に何があるのだろう。そしてその言葉は何を権威として語られるのだろう。国家、法律、力、学歴・・・・。なににしても人を生かし、育てる言葉を語りたい。そのためには目に見るものだけに頼っていては難しいかも知れ名。

投稿者: 日時: 18:28 |

選ばれしは恵み

今年、中国で北京オリンピックがあります。日本の代表選手もほとんど決まりました。しかし確かマラソンの選手は一つの枠が空いていたように思いますが。代表に選ばれるということは名誉なことだと思います。先日行なわれた卓球の大会でオリンピック代表に選ばれ、確か代表選手の中で世界ランキングも一番上だったのではないかと思いますが、4強には進めなかったようです。福原選手は、それに相応しい活躍をしたいと大会前に語っていました。そのことが重く肩に圧し掛かり、緊張し、固くなってしまったのではないかと想像します。本人としては不本意な成績で残念だったでしょう。オリンピックでは実力が出せたらいいですね。

 ともかくも、「選ばれる」ということは嬉しいことだ。私も高校生時代に柔道をしていて、2年生の時に団体戦の五番手(大将)に選ばれことがあり、嬉しい思い出である。「よし次回も頑張るぞ!」、そんな気持ちにさせてくれます。

 今、祈祷会で新約聖書の中のローマ書を学んでいます。学びながら感じることは、この手紙を書いたパウロの息づかいが伝わってくるような気がすることがあります。例えば、これは23日に学んだことですが、ローマ9章3節で「私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」と語っています。パウロはイスラエル人ですが、その同胞が救われるためならば、自分が呪われてもかまわないといっているのです。同胞に対するパウロの熱い思いが伝わってきます。

 この言葉の背後、パウロの思いの背後には「選ばれたのに」という思いがあります。イスラエルの民は神の恵みを伝え表すために選ばれた民です。ですから紙から律法も与えられ、神との約束も与えられ、更に言えば彼らの中からイエス・キリストも生まれてきたのです。そういう意味では名誉なことです。しかし彼らはそのイエス・キリストを拒んでしまったのです。そこでパウロ自身も伝道者として神に選ばれているけれども、しかし同胞は同じように神に選ばれているのに、どうなっているのか、という思いがあるのです。どうしてイスラエルはイエス。キリストを拒否してしまうような結果を招いてしまったのでしょう。

 パウロは同じローマ書の中で、「神はモーセに、『私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っております。従ってこれは、人の意思や努力ではなく、神の憐れみによるものです」と語っています。この言葉によると、パウロやイスラエルが「選ばれた」というのは、彼らが優れていたからではなくて、ただ神の恵みであったということですね。ひょっとして、イスラエルの民は選ばれたことが当然のことだと考え、天狗になってしまって、その心の緊張が、彼らの目をくもらせてしまい、神の子イエスを拒否してしまったのかも知れません。

 スポーツの世界では、選ばれるか、選ばれないかは本人の実力にしだいです。当然厳しい世界になります。スポーツに限らず、この世の中のどんな分野においても、その道で「選ばれる」ということは、その人の実力です。しかし、その時も、「恵み」という視点を持っておくことは必要だと思います。選ばれない時もいつかは来るのです。感謝して、自然体で、歩む人生でありたいですね。

投稿者: 日時: 16:13 |

あるひとつのユーモア

 「福音と世界」という月刊誌を購読しているが、毎回興味深く読んでいるのが八木重吉の詩の解説です。この2月号では次のような詩が紹介されていた。                

「宿直べやにねようとすれば
救世軍のらしいえんぜつがかすかにきこえてくる
あのひとたちだって
いっしんいちねんのそこにうたがひもあろう
みえも虚栄もあるにはあろうが
とにかくあのいっしんがあるのだなあ
さてこの宿直べやの
いやにむやみに四角なこと
形式と無かんげきそのもののようなへや
食ふためとはいへ
こんな生活をくりかえしてゆく
死んでやろうといふかんげきもうせた
生きようといふあざやかなねがひもない
あるものは
ひとすぢのぜつぼうとげんめつのこころだ」

 この詩だけを読むと何か虚無的な雰囲気を感じさせるしですが、ここに八木重吉のユーモアがあると言うわけである。彼は師範学校の教師をしていたそうだが、その宿直室のことであろう。寝ようとするとかすかに救世軍の演説らしきものが聞えてくる。社会鍋なのでしようか。彼らはたいへん熱心に活動をしている。信仰に押し出されるようにして活動している彼らではあるが、その心の底にも不安があったり、みえもあれば虚栄心もあるだろう、というわけである。重吉は人間が内に持っている矛盾を突いている。

 しかしどうだろう、重吉自身も「死んでやろうといふかんげきもうせた」という言葉で人生に対して真剣に取り組んでいる姿勢を表しているようだが、しかしその命は形式的なものの中におさまりきれずに苦悩している。それを「いやにむやみに四角なこと/形式と無かんげきそのもののようなへや」という言葉に読み取れます。あるいは「食ふためとはいへ/こんな生活をくりかえしてゆく」という言葉に重吉の苦悩が表れている。自らの矛盾に重吉は苦しんでいるのである。

 ではなせこのような詩にユーモアがあるというのか。信仰というのは立派な人間になるために持つのではない。清い人間を目指しているのでもない。矛盾を抱え込みながらも、苦悩を抱え込みながらでも、神の赦しの中に生かされ、そこに苦悩の中に希望が見えてくるのである。それを「ゆとり」とも説明をしている。もう一つがの詩が紹介されていた。

「このように
てんごくのきたる
その日まで わがかなしみのうたはきえず
てんごくのまぼろしをかんずる
その日あるかぎり

わがよろこびの頌歌はきえず」。
ここで「わがかなしみのうたはきえず」と歌っているのは、上記の歌が指している自分の内の矛盾に苦しんでいる姿のだろうと思いますが、しかし天国ら向かっている生涯には同時に、「わがよろこびの頌歌はきえず」は消えないのです。自らの生涯をユーモアをもって受け止めているように思えます。また苦しみをある距離感をもって見ているように思えます。

 パウロはローマ8章で、誰がキリストの愛から引き離す事が出来るだろうかと語り、七つの艱難を挙げています。恐らくパウロが宣教の歩みの生涯の中で経験したことでしょう。その戦いの生涯を支えたのは、神の愛はどのような状況の中でも動かない、変わらないという信仰でありました。特に8章21節以下で、神の愛、キリストの愛から誰も引き離す事が出来ないと二度繰り返しています。ぎりぎりのところで「ゆとり」をもって生きているパウロの姿が見えてきます。これもパウロのユーモアと言えるのでしょう。

投稿者: 日時: 09:20 |

何が人を突き動かしているのか

 毎日放送のあるニュース番組の「憤懣本舗」で、神社に初詣に来た人々のマナーの悪さを報道していました。駐車違反にゴミのポイ捨て、その地域の人々に迷惑をかけておいて神頼みもないものだと思う。元旦の午後に家族で出かけましたが、その時に、いたるところに「駐禁」のマークが張っていたので、普段あまり見慣れない風景だったので、どうしてかなと思っていたのですが、このニュースを聞いて納得したのですが、車を乗らない私からすれば、えびす神社は電車で行けばいいと思うのだが。そのほうがよほど気持ちはいいと思うが。

 この地域の人々に迷惑をかけてまでも、神に祈ろうとするその心根とは何だろう。そこで祈られることは恐らく、自分の幸せに関する事が大部分だろうと思う。いよく言われることが「商売繁盛、家内安全」ということです。

 そこで私は、ふと新約聖書のルカ福音書に出てくる、いわゆる「放蕩息子」の話しを思い出した。そこには兄弟が出てくるのだが、弟の方が父親の財産を生前分けしてもらって、それを現金化して、家を飛び出して、放蕩の限りを尽くします。彼がて飛び出た理由について聖書は語らない。恐らくそこに興味がないのでしょう。むしろ弟が金に執着したという事実が浮びあがってくる。いかなる理由があろうとも彼は金に捕らわれていたことは事実だ。そして飛び出た。そこに人間の貪欲さがあるように思う。親から離れたい、というのもその一つの現われではないだろうか。

 人間の歴史を突き動かしてきたのは、この「貪欲」という欲望がエネルギーとなって、今日の人間の世界を作り上げてきたといえるのではないか。その弊害が「地球温暖化」と言われているが、人間の貪欲の結果といえないだろうか。旧約聖書の創世記の初めを見ると、人類の最初の人手あったアダムとエバは、神のようになることを願って、神が食べる事を禁じていた木の実を取って食べた、それが人類の歴史の始まりである。それを人は「進歩」とか「進化」とか「発展」と言うが、確かに物質的に、あるいは文化的にもそう言えるのかも知れないが、本当に人間としての進歩の道を歩んできたのだろうか?

 詩人の八木重吉の詩に次のようなものがあります。
「この聖書のことばを/うちがわからみいりたいものだ/ひとつひとつのことばを/わたしのからだの手や足や/鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ/ことばのうちがわへはいりこみたい」

 重吉は聖書をうちがわから読むと言っている。聖書の一つ一つの言葉が、自分の体で感じられるようになる。それは聖書の言葉が彼の全人格を動かすのだ。いわば聖書の言葉が彼の命となっていく。重吉のいうように、聖書のうちがわに入っていくような読み方をしたいものだ。確かにパウロは、「信じる」ことを「キリストの中に」という表現をギリシャ語でしている。それと通じるのかもしれない。

 そして重吉は、別の詩で、「十字架を説明しようとしまい/十字架のなかへとびこもう」と歌っている。ここにはキリストへの深い信頼が読み取れる。彼を突き動かしていたものは、私たちの身代わりとして十字架の上で死なれたキリスト、そこに現されている神の愛ではなかっただろうか。重吉は、「聖書」を「よいほん」と読ませているのだが、一人でも多くの人に聖書を読んで欲しいと願っていると思われる。

投稿者: 日時: 23:28 |