こころの溜池

 貧しい人々、働いても最低水準の収入すらも得られないような人々、ワーキング・ブアと呼ばれる人々の支援活動をしている、あるNPOの代表の方がいわれていた言葉に「溜池」ということがあります。正確な言葉ではありませんが、確か“貧困フェスタ”というようなお祭りを、既に済んでいると思いますが、計画していることを聞きました。「祭り」と聞きますと何か楽しい雰囲気があります。しかしそこに参加する人々は日常においてはかなり深刻なところがあります。しかしそのフェスタに参加することによって、どこか心に「ゆとり」を持てたら、ということのようです。当然そこに横のつながりも生まれるでしょう。その方の言われることは、経済的にも、精神的にも、社会が溜池を持つことだというのです。

 「溜池」というのは、畑のために普段から水を用意しておく池です。そのようなゆとりが必要だというわけです。確かに、格差社会の中で人々は行き詰まり、時には自殺まで追い込まれる人がいます。もし、そこに少しでも「ゆとり」があれば、死なないですんだかも知れません。経済的な事柄に限らず心に「溜池」を持つことは大切なことだと思います。

 最近、「スピリチュアリティ」という言葉を新聞などでも見るが、もともと宗教性のある言葉です。しかし宗教性の薄い日本では、生きる意味などの答えをスピリチュアルなテレビ番組などに求めたりします。そこで先祖などとのつながりが説かれたりしますが、「つながり」とか「結びつき」ということが支えとなることがあります。旧約聖書を読んでいても、「死んで先祖に加えられた」という言葉を何度か見ます。死とは孤独なものですが、しかしそれが先祖とのつながりの中で捉えられるとき、何か安らぎが与えられます。

 世界遺産に加えられた白川郷の合掌造りの家は、豪雪地帯もあって屋根は鋭くとがっていますが、30年おきぐらいに屋根が葺きかえられますが、その時には村人たちが協力して、一つひとつの家の屋根を葺きかえていきます。ですから白川郷には「結」という思想があります。民俗学の考え方の中に「ハレ」と「ケ」というのがあります。「ハレ」は祭りで「ケ」は日常のことです。より良い「ケ」のために「ハレ」があります。「ハレ」は神事でありますが、その営みの中で人とのつながりが強くされ、「ケ」である野良仕事での協力ということにもつながっていくのではないかと思います。

 その人との「結びつき」が、人の「溜池」となっていくのではないかと思います。受け入れられ、赦され、支えられる。今日ではその「結びつき」が希薄になっています。家庭もそうですが、だからこそ犯罪も凶悪化するのではないか、と思います。

 イエスの譬え話しに「四つの種の話し」があります。農夫によって蒔かれた種は飛んでいきます。道端。その種は鳥に食べられます。岩地。土がなく強い日差しで枯れます。茨の中に落ちた種は、陰のために成長をしません。そして良い地に落ちた種は豊かに実を結びます。しかし種そのものには何の違いはありません。たまたま運が良かっただけです。その種が優れていたわけではありません。それなのに他の者たちは人間扱いをされません。罪人だから神に見捨てられたと言われます。努力しないから、能力がないから、そういう羽目にあうと言われます。しかしイエスはそのような彼らと食事をし、交わりを持ち、彼らをかけがえのない人間として接し、結びつきをもちました。そのようにして道端から畑に戻し、覆い塞ぐ茨を取り除くために棘の中に身を置き、友となり、不条理を共に怒り、共に泣きました。そのようにして道端や岩地や茨の地に落ちた種の「溜池」そのものにイエスはなってくださいました。

投稿者: 日時: 2008年02月21日(木) 00:22