言葉が生きる関係を

 世の中には言葉で勝負をする仕事というのは様々あります。作家とか、落語家とか、カウセラーとか、それに宣教師や牧師もそうです。

私は本が好きで読みますが、年とともに根気がなくなってきましたが、しかしできるだけ暇を見つけては読むようにしていますが。何でも読むというわけでもなく、特にキリスト教関係で、好んで読むのは日本の教会の歴史に関することです。そして必要に迫られて読むのが聖書の注解書や講解書です。そしてトピック的に興味をもって時々読むのがキリスト教の思想関係や宣教学関係です。

私はそんな本を読んでいて時々、著者の誠実さを感じることがあります。例えば、あるコメンタリーを読んでいて、若い時に書いたことと、ある年齢になって書いたこととが、同じ事柄でまったく異なる意見を述べていたのですが、私は若い時に書かれたという本は知りませんが。読んでいて、若い時はこのような意見だったけれども、年老いてから若い時に書いたことを、こういうことで修正せざるを得ない、と語っているのです。言葉に生きる者としての誠実さを感じました。

人によっては時と状況によって言うことが、ころころと自らの保身のために風見鶏のように意見が変わるという人がいます。変わるのは本人の勝手だと言えばそうですが。しかしそれではその人の言葉が信じられなくなります。その言葉を吐いているその人自身を信じることが出来なくなります。その人が、どのようないい話をしても、どのような良い説教をしたとしても、私はその人の言葉を信じません。

 言葉というのは、関係を生み出していく単なる道具ではありません。その人が語る言葉を通して、その人自身の人格というものがそこに表されているのです。言葉には命があるのです。言葉を通して関係を生み出し、その関係の中から何かが生まれることがあるのです。生み出されていくものがあるのです。その言葉が信じられなくなったとき、そこには荒涼とした荒野が広がるだけです。まさに死の世界です。何も生まれてきません。私はそんなことを言葉に生きる者たちの間にあってふと思うのです。

 聖書にとって言葉とは重要な意味を持っています。新約聖書のヨハネ伝の初めには「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り、主イエスを「言葉」と表現しています。この言葉は、旧約聖書の創世記の初めで神は、言葉をもって世界を創造されたと伝えています。「光あれ」といわれると光が生まれました。その言葉そのものである主イエスを信じる者に永遠の命が与えられるのです。主イエスの言葉は人の罪を赦し、命を与えてくださいます。私たちはその福音を伝えているのです。
旧約聖書のイザヤ55章10節と11節「雨も雪も、ひとたび天から降れば、空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も空しくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」とあります。言葉にはこれほどの力があります。命があります。

 人を生かし、命をもった言葉が生まれてくる、そんな人間関係が一つでも生まれることを願います。

投稿者: 日時: 2008年02月08日(金) 00:32