選ばれしは恵み

今年、中国で北京オリンピックがあります。日本の代表選手もほとんど決まりました。しかし確かマラソンの選手は一つの枠が空いていたように思いますが。代表に選ばれるということは名誉なことだと思います。先日行なわれた卓球の大会でオリンピック代表に選ばれ、確か代表選手の中で世界ランキングも一番上だったのではないかと思いますが、4強には進めなかったようです。福原選手は、それに相応しい活躍をしたいと大会前に語っていました。そのことが重く肩に圧し掛かり、緊張し、固くなってしまったのではないかと想像します。本人としては不本意な成績で残念だったでしょう。オリンピックでは実力が出せたらいいですね。

 ともかくも、「選ばれる」ということは嬉しいことだ。私も高校生時代に柔道をしていて、2年生の時に団体戦の五番手(大将)に選ばれことがあり、嬉しい思い出である。「よし次回も頑張るぞ!」、そんな気持ちにさせてくれます。

 今、祈祷会で新約聖書の中のローマ書を学んでいます。学びながら感じることは、この手紙を書いたパウロの息づかいが伝わってくるような気がすることがあります。例えば、これは23日に学んだことですが、ローマ9章3節で「私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」と語っています。パウロはイスラエル人ですが、その同胞が救われるためならば、自分が呪われてもかまわないといっているのです。同胞に対するパウロの熱い思いが伝わってきます。

 この言葉の背後、パウロの思いの背後には「選ばれたのに」という思いがあります。イスラエルの民は神の恵みを伝え表すために選ばれた民です。ですから紙から律法も与えられ、神との約束も与えられ、更に言えば彼らの中からイエス・キリストも生まれてきたのです。そういう意味では名誉なことです。しかし彼らはそのイエス・キリストを拒んでしまったのです。そこでパウロ自身も伝道者として神に選ばれているけれども、しかし同胞は同じように神に選ばれているのに、どうなっているのか、という思いがあるのです。どうしてイスラエルはイエス。キリストを拒否してしまうような結果を招いてしまったのでしょう。

 パウロは同じローマ書の中で、「神はモーセに、『私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っております。従ってこれは、人の意思や努力ではなく、神の憐れみによるものです」と語っています。この言葉によると、パウロやイスラエルが「選ばれた」というのは、彼らが優れていたからではなくて、ただ神の恵みであったということですね。ひょっとして、イスラエルの民は選ばれたことが当然のことだと考え、天狗になってしまって、その心の緊張が、彼らの目をくもらせてしまい、神の子イエスを拒否してしまったのかも知れません。

 スポーツの世界では、選ばれるか、選ばれないかは本人の実力にしだいです。当然厳しい世界になります。スポーツに限らず、この世の中のどんな分野においても、その道で「選ばれる」ということは、その人の実力です。しかし、その時も、「恵み」という視点を持っておくことは必要だと思います。選ばれない時もいつかは来るのです。感謝して、自然体で、歩む人生でありたいですね。

投稿者: 日時: 2008年01月24日(木) 16:13