言葉が生み出される背景

私たちの教会の属している群れの中のひとつの教会が会堂を改装することになった。ちなみ私たちの教会も2年ほど前に改装をしている。このために教会は多額の出費をすることになり、これは大変なことです。
 数週間前、ある用事である神社の社務所に行く機会がありました。神社の社務所に入ったのは始めてのことだが、かなり古く傷んでいる様子でした。部屋に案内していただくと、天上は染みだらけでした。恐らく雨漏りが長くしていたのだろう。小さな神社であったので、維持が難しいのかも知れない。

 神学生時代に、創価学会やPL教団の本山や高野山を見学にいったことがある。それぞれ立派な建物がたてられていました。PL教団だったろうか、とても大きなパネルが張られた大きな部屋がありました。そこにはローマ法王がPL教団を訪問した時と思われる写真を大きく引き伸ばして張っていました。宗教を異にするカトリックの頂点に立つ者の写真を何のために張っているのだろうかと、それも大きなパネルにしてと、ふと考えさせられました。そのローマカトリック教会の総本山であるバチカンにあるサンピエトロ寺院もとても大きく立派な建物です。それを建てるために免罪符が売られたのです。

 これは建物ではないが、私が神学校の卒業論文にキリシタン関係の論文を書きました。その準備の段階で資料を集めるのに苦労をして、あちらこちらの図書館、国会図書館からも資料を取り寄せたりしました。資料を探している時に、どうしても必要な資料が天理図書館にあることが分かりましたが、恐らく天理図書館に行っても私が必要としている書物に直接触れることはできないだろうと思っていましたが、しかし、それを全文載せている雑誌、天理図書館が所蔵しているのを紹介している雑誌があり、それが大阪市立図書館にあることを突き止めまして、そこでコピーを取る事が出来ました。それにしても天理図書館はたいへん貴重な書物を収拾しています。先ほどのローマカトリックの総本山であるバチカンにも、貴重な美術品や書籍などがあります。

 宗教とは何だろう。いわゆる聖人と呼ばれるような人々、例えば、アシジの聖フランシスコなどは清貧の生活をしました。富も名誉も高価な服も貴重な書籍も、そして立派な建物も彼は必要とはしませんでした。目に見えないものに目を向けていく、そこに希望を見出していく。目に見えないものとは神を指します。ですから極めて精神性といいますか、外側のことよりも内側のことが重視されるのですが、その宗教というものが、大きくなり、組織立てられてくると、荘厳な建物、そして貴重な宝物を必要とされてくるのです。即ち外側のものを必要としてくるのです。

 外側のものを必要とする、それは「権威づけ」ということだろうと思います。その権威に人は引き付けられます。ある高名な牧師が言いました、「会堂にも伝道してもらわなければ困る」と。その先生の教会は立派な会堂が建っています。確かに人はみすぼらしいところには行きたいとは思わないでしょう。

 人は権威を必要としているのかもしけません。目に見えるものや理性で納得できる権威というものによって、自分を支えていく。福音書の中で主イエスに人々が奇跡を求めたことが語られているが、そのことが信じる根拠になると人は思いやすい。しかし人々の心を捉えたのはイエスの教えでした。そう言葉でした。魂を捉える言葉であったのです。その主イエスの言葉の背後には、人のために自らの命も惜しまず献げる愛の神としての姿があります。目には見えないが、聖書を通して2000年にわたって伝えられ、どれだけの人々が彼の言葉で慰められ、励まされ、命を回復してきたことだろうか。

 言葉で勝負する仕事に何があるのだろう。そしてその言葉は何を権威として語られるのだろう。国家、法律、力、学歴・・・・。なににしても人を生かし、育てる言葉を語りたい。そのためには目に見るものだけに頼っていては難しいかも知れ名。

投稿者: 日時: 2008年01月29日(火) 18:28