何が人を突き動かしているのか

 毎日放送のあるニュース番組の「憤懣本舗」で、神社に初詣に来た人々のマナーの悪さを報道していました。駐車違反にゴミのポイ捨て、その地域の人々に迷惑をかけておいて神頼みもないものだと思う。元旦の午後に家族で出かけましたが、その時に、いたるところに「駐禁」のマークが張っていたので、普段あまり見慣れない風景だったので、どうしてかなと思っていたのですが、このニュースを聞いて納得したのですが、車を乗らない私からすれば、えびす神社は電車で行けばいいと思うのだが。そのほうがよほど気持ちはいいと思うが。

 この地域の人々に迷惑をかけてまでも、神に祈ろうとするその心根とは何だろう。そこで祈られることは恐らく、自分の幸せに関する事が大部分だろうと思う。いよく言われることが「商売繁盛、家内安全」ということです。

 そこで私は、ふと新約聖書のルカ福音書に出てくる、いわゆる「放蕩息子」の話しを思い出した。そこには兄弟が出てくるのだが、弟の方が父親の財産を生前分けしてもらって、それを現金化して、家を飛び出して、放蕩の限りを尽くします。彼がて飛び出た理由について聖書は語らない。恐らくそこに興味がないのでしょう。むしろ弟が金に執着したという事実が浮びあがってくる。いかなる理由があろうとも彼は金に捕らわれていたことは事実だ。そして飛び出た。そこに人間の貪欲さがあるように思う。親から離れたい、というのもその一つの現われではないだろうか。

 人間の歴史を突き動かしてきたのは、この「貪欲」という欲望がエネルギーとなって、今日の人間の世界を作り上げてきたといえるのではないか。その弊害が「地球温暖化」と言われているが、人間の貪欲の結果といえないだろうか。旧約聖書の創世記の初めを見ると、人類の最初の人手あったアダムとエバは、神のようになることを願って、神が食べる事を禁じていた木の実を取って食べた、それが人類の歴史の始まりである。それを人は「進歩」とか「進化」とか「発展」と言うが、確かに物質的に、あるいは文化的にもそう言えるのかも知れないが、本当に人間としての進歩の道を歩んできたのだろうか?

 詩人の八木重吉の詩に次のようなものがあります。
「この聖書のことばを/うちがわからみいりたいものだ/ひとつひとつのことばを/わたしのからだの手や足や/鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ/ことばのうちがわへはいりこみたい」

 重吉は聖書をうちがわから読むと言っている。聖書の一つ一つの言葉が、自分の体で感じられるようになる。それは聖書の言葉が彼の全人格を動かすのだ。いわば聖書の言葉が彼の命となっていく。重吉のいうように、聖書のうちがわに入っていくような読み方をしたいものだ。確かにパウロは、「信じる」ことを「キリストの中に」という表現をギリシャ語でしている。それと通じるのかもしれない。

 そして重吉は、別の詩で、「十字架を説明しようとしまい/十字架のなかへとびこもう」と歌っている。ここにはキリストへの深い信頼が読み取れる。彼を突き動かしていたものは、私たちの身代わりとして十字架の上で死なれたキリスト、そこに現されている神の愛ではなかっただろうか。重吉は、「聖書」を「よいほん」と読ませているのだが、一人でも多くの人に聖書を読んで欲しいと願っていると思われる。

投稿者: 日時: 2008年01月07日(月) 23:28