あるひとつのユーモア

 「福音と世界」という月刊誌を購読しているが、毎回興味深く読んでいるのが八木重吉の詩の解説です。この2月号では次のような詩が紹介されていた。                

「宿直べやにねようとすれば
救世軍のらしいえんぜつがかすかにきこえてくる
あのひとたちだって
いっしんいちねんのそこにうたがひもあろう
みえも虚栄もあるにはあろうが
とにかくあのいっしんがあるのだなあ
さてこの宿直べやの
いやにむやみに四角なこと
形式と無かんげきそのもののようなへや
食ふためとはいへ
こんな生活をくりかえしてゆく
死んでやろうといふかんげきもうせた
生きようといふあざやかなねがひもない
あるものは
ひとすぢのぜつぼうとげんめつのこころだ」

 この詩だけを読むと何か虚無的な雰囲気を感じさせるしですが、ここに八木重吉のユーモアがあると言うわけである。彼は師範学校の教師をしていたそうだが、その宿直室のことであろう。寝ようとするとかすかに救世軍の演説らしきものが聞えてくる。社会鍋なのでしようか。彼らはたいへん熱心に活動をしている。信仰に押し出されるようにして活動している彼らではあるが、その心の底にも不安があったり、みえもあれば虚栄心もあるだろう、というわけである。重吉は人間が内に持っている矛盾を突いている。

 しかしどうだろう、重吉自身も「死んでやろうといふかんげきもうせた」という言葉で人生に対して真剣に取り組んでいる姿勢を表しているようだが、しかしその命は形式的なものの中におさまりきれずに苦悩している。それを「いやにむやみに四角なこと/形式と無かんげきそのもののようなへや」という言葉に読み取れます。あるいは「食ふためとはいへ/こんな生活をくりかえしてゆく」という言葉に重吉の苦悩が表れている。自らの矛盾に重吉は苦しんでいるのである。

 ではなせこのような詩にユーモアがあるというのか。信仰というのは立派な人間になるために持つのではない。清い人間を目指しているのでもない。矛盾を抱え込みながらも、苦悩を抱え込みながらでも、神の赦しの中に生かされ、そこに苦悩の中に希望が見えてくるのである。それを「ゆとり」とも説明をしている。もう一つがの詩が紹介されていた。

「このように
てんごくのきたる
その日まで わがかなしみのうたはきえず
てんごくのまぼろしをかんずる
その日あるかぎり

わがよろこびの頌歌はきえず」。
ここで「わがかなしみのうたはきえず」と歌っているのは、上記の歌が指している自分の内の矛盾に苦しんでいる姿のだろうと思いますが、しかし天国ら向かっている生涯には同時に、「わがよろこびの頌歌はきえず」は消えないのです。自らの生涯をユーモアをもって受け止めているように思えます。また苦しみをある距離感をもって見ているように思えます。

 パウロはローマ8章で、誰がキリストの愛から引き離す事が出来るだろうかと語り、七つの艱難を挙げています。恐らくパウロが宣教の歩みの生涯の中で経験したことでしょう。その戦いの生涯を支えたのは、神の愛はどのような状況の中でも動かない、変わらないという信仰でありました。特に8章21節以下で、神の愛、キリストの愛から誰も引き離す事が出来ないと二度繰り返しています。ぎりぎりのところで「ゆとり」をもって生きているパウロの姿が見えてきます。これもパウロのユーモアと言えるのでしょう。

投稿者: 日時: 2008年01月18日(金) 09:20