2007年07月のアーカイブ

人間とは何者か Ⅴ

 もう退職されていますが、先輩のある牧師が、以前にこんなことを言われたことがあります。「教会こそ人の罪があらわにされる」とです。教会に行くと「つみ、つみ、つみ・・・・」と言われて、まるで理髪店のようだと言われた先生もおられましたが、人の罪の現実というものは、どこでも見られることですが、特に教会ではよく見えるのかも知れません。

 キリスト教の二千年の歴史の中で様々な過ちを犯してきたと思います。それを紐解く必要もないでしよう。1549年にザビエルが来日して日本の宣教が始まりましたが、その宣教は容易ではありませんでした。迫害が起こり、多くの殉教者の血が流されました。そんな歴史の中で、あるイエスズ会の布教長は、日本の宣教を勧めるために自国の軍隊の出動を要請するような手紙を書き送っています。巡察師のヴァリニヤーノは反対の手紙を送っており、無論それは実現していません。これは宣教ではなく、侵略になってしまいます。余りにも困難のゆえにそんな思いすら生み出してしまうのでしょう。それは人間がもっている弱さであり、罪と言えるでしよう。あるいは厳しい迫害の中で転んだ宣教師をおり、それだけでなく更にキリシタン迫害のために協力したと思われる人々もいます。それも単に人間の弱さとしてすまされないものがあるでしよう。しかしその彼らを誰が攻められるのかとも思います。同じ根っこを抱え持っている人間の一人として。確かに人が生きていくとき、罪もからみついてくるものです。切っても切っても切れない、まるで病気と付き合っていくように付き合わざるを得ないようなところがあります。

 しかし、神は一人一人の行いに応じて裁かれるという点を考えると、人間とは弱い者ということだけですまされないものがあります。それだけにキリストの罪の赦しの恵みのありがたさが身にしみて分ります。今、祈祷会でローマ書を学び始めていますが、あるローマ書研究の書物の中で、関根正雄氏の言葉を引用して次のような事がことが書かれて今した。「『信仰による義認ということと行いによる聖化との間の緊張関係』、つまり『信仰とは幼児のごとく本当に日ごとにいただくもの、徹底的に自分に死んで(自分の信仰のなさをぎりぎりまで知らされ)キリストにあってのみ生きること』、それが『もはや我々の行いではない、キリストがこの私の中でなしたもう(聖なる)行い』」とであります。その意味で私たちがキリストによって生かされる、という信仰の営みの中で、私たちが新しくされる、そのことを私たちは深く味わう必要があるでしょう。

 誰かがではありません。私も今はこうして牧師をしていますが、献身の歩みを始めたとき、躓きを覚えた事があります。私は先天性の弱視ですが、それを攻撃する言葉を投げかけられた事があります。生涯の中で一般の人々からでも言われた事のない差別の言葉を聞かされて、なさけなくて涙が出てきましたが。その方は当時、色々と困難にぶつかっていたので、気持がイライしていたことは知っているのです。そういうものが心の動きの中にあったのでしよう。私が躓いて、怒り、ことを荒らげなかったことを今はよかったと思っています。信仰深いからというのではなくて、忍耐が与えられたことは感謝です。荒らげたとしてもいい結果は出なかったでしよう。

 主イエスは和解の主、関係を作り出す主とも言えます。だとしますと、私たちは関係を壊すのではなく、作り上げていくべきでしょう。躓くことがあったとしても、そのことのために一歩一歩、祈りつつ前進したいものです。

投稿者: 日時: 14:47 |

人間とは何者か Ⅳ

 私の母は長崎の出身で、子供のころに原爆の話しをしてくれたので、それを映像として目に思い描くことが出来ます。母は、兄弟を原爆で二人亡くしているようで、母自身は原爆が落ちてから、時期的には分からないが、長崎に入ったようです。その時の風景を話してくれたのです。あの長崎の鐘の永井博士のことも少し知っていたようです。私自身は戦後に生まれていますので、戦争時の生活ぶりなどは知る由もないのですが。そういう話しを親から聞かせてもらったということは貴重なこと、大切なことであったと思います。私の親は、平和のことについてどうしても子供たちに考えてもらわないといけないから、というような意識をもって教えたのではなく、ただ、自然な形で、自分たちの体験として話しをしてくれたのだと思います。しかしそれを聞かされた私のほうとしては平和であることを願う思いが生まれてきたのだろうと思います。やむをえないことですが、年とともに実際に体験をした人々の生の声が聞けなくなっていくことは残念だと思います。それだけに私たちは意識的に平和について考えていかなければならないでしょう。

 多くの一般市民を殺すことを目的とした原爆を投下するというのは犯罪だと思いますし、また逆に南京虐殺など、日本がその犯罪の加害者にもなっています。戦争とはそういうもの。「よくそんなことができるな!」ということがあるように思います。むろんきれいな戦争などはないのですが。人間性を失わせるものです。何かこのような表現によって国家としての責任を希薄にするというつもりはないのですが、ただ、人間が共通して持っている暗闇の部分が見えてくるような気がします。

 人間が持っている闇の分部というのは、時に聖なる事柄と思えることのなかにも頭をもたげてくるものであります。祈祷会でローマ書を学び始めたのですが、パウロは宗教的信念をもって生きていました。キリスト者抹殺こそ神への忠実な行為だと信じていたのです。しかしそこで起こっていることは何かと言えば、律法を守りぬこうとする熱心さが、憎しみと殺意を生んでいるということです。宗教的な自己主張の何ものでもないのです。もし主イエスがキリストだったらどうするのか。あのステファノの死、「主よ、私の霊をお受けください」「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈る姿。これは宗教的エゴイズムと違います。憎悪と殺意に対していたのは、罪を背負う愛、キリストの愛でありまた。ダマスコに向かうパウロは、このステファノの姿に、意識にはまだのぼらないけれども、「もしかして」という思いがあったのかも知れません。自らの矛盾を感じ取っていたのかも知れません。そのようなおり、復活の主イエスと接するのです。彼の行動は、実は逆に、真実に背くことをしてしまっていたのです。生前のイエスを知らないパウロですが、復活のイエスを宣べ伝え、キリストの道を証しするキリスト者は知っていました。いや対立していました。それはイエスを十字架に追いやった人たちと同質の罪がそこにありました。その自覚からキリストに生きるパウロが生まれてきたと言えるかも知れません。

 人間とは複雑なものです。どのような形で闇の分部をさらけ出しているのか分りません。8月になれば「平和祈念」ということが言われます。それも大切なことです。しかし平和の神様の御言葉の前に、改めて謙虚に心を開く、そのことを新にされる、そういうときでもあってほしいと願います。そこから私にできることが始まっていくように思います。

投稿者: 日時: 15:34 |

人間とは何者か Ⅲ

 今週の月曜日に私たちの教会員で声楽をしておられる方がいて、その方を含めた何人かによるコンサートがありました。チケットを買って行くつもりでしたが、私が兼任する教会の会員が召されたので行く事が出来ませんでした。その召された方の愛唱歌が讃美歌404番(山路越えて)です。その讃美歌はその方が若いころに聞いた事があって、深く心に残っていたといいます。宇和島での伝道を終えて法華津峠を通って松山に帰る、その心境を歌ったものです。その旅の歌が人生の歌として心に残ったのでしょう。

 音楽というものは不思議なもので、人の心をとらえ、内にあるものを自由に外に解放していく力があります。音楽をもたない民族はないと思いますし、また音楽と宗教との関係も深いものがあります。旧約聖書の創世記4章21節「その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった」とあります。そこから始まり、旧約聖書や新約聖書に礼拝で歌われたであろう讃美歌が記されています。そしてキリスト教会の歴史の中で多くの作詞家や作曲家を生み出してきています。

 ザビエルが日本にきたのが1549年で、その時には楽器を持参した形跡はないようです。しかし1551年2月に山口で伝道することを願い、その許可をもらうために大名大内義隆にみやげ物を持って会っています。その中に「十三ノ琴ノ糸ヒカザルニ五調子十二調子ヲ吟ズル」と言われる楽器が含まれています。どういう楽器かは不明であるが。オルガンが日本に輸入されたのは1580年ごろといわれていますが、驚きなのは日本製のオルガンがあったというのです。1596年にポルトガル船長メンデスという人がセミナリョを訪ねて「噂のように竹のオルガンがあるものならば、自分の眼で見、自分の手で触りたいと、それを見、触り、その音を聞いたとき、少なからぬ驚嘆を禁じえなかった」と述べたと言われています。1600年前後には主だった教会にはオルガンがあったと言います。竹のオルガンはどれだけ作られたのか分かりませんが、どのような音色を奏でたのか、心がわくわくします。そのオルガンで礼拝を守ってみたい、そんな思いが生まれてきます。

 こんな歌が伝えられています。「あ~参ろうやな、参ろうやなあ、パライゾの寺にぞ参ろうやなあ、パライゾの寺とは申するかなあ、広いな狭いは、わが胸にあるぞやなあ。あ~しばた山、しばた山なあ、今はな涙の先き(谷)なるやなあ、先はなあ、助かる道であるぞやなあ」。殉教の歌と言われていますが、処刑されるときに天国を臨んで歌ったのかも知れません。その心の底からの魂の歌は、極限状態の中でもその信仰をささえる勇気を与えたのでしょう。詩篇103編に「わが魂よ、主をたたえよ」と二回繰り返されています。そのように、心の中でこの歌を何度も何度も繰り返して歌ってみたら、何かしら心が暖かくなり、慰められ、励まされるような気持になります。神に向かう魂の歌は、人を生き返らせてくれます。

投稿者: 日時: 18:58 |

人間とは何者か Ⅱ

 先週、いつもお交わりをしていただいていた牧師が50代後半で召され、その葬儀に出席させて頂きました。その教会は複数の牧師によって牧会されている教会で、主任牧師が司式をされました。司式者の先生は引退を考えておられたのでしよう。ご自身の葬儀を召された先生にお願いするつもりであったことを語っておられましたが、さぞかし無念であったろうと推察しました。しかしその場にいて、深い悲しみと共に慰めと暖かさに満ちた葬儀でありました。「先生は、このような暖かい交わりの中で働かれ、この交わりから天国へと送られたのだ」と思い、残念な思いはありますが、幸いだったなと感じたしだいです。

 人生の終わりは順番通りにいくとは限りません。順番が狂うと悲しみはいっそう深まるものですが、しかし順番はともかく誰しにも訪れることです。普段の生活の中で私たちは忘れているが、いやむしろそれと正面から向きあうことを避けていると言えるのかも知れません。思い出したくないと思っています。人間にとって死は忌むべきものとして存在しています。しかしそれとどのように向きあっていくのか、人生にとって大切なことであります。

 旧約聖書のコヘレト12章1節に「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とあります。別の訳では「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」となっています。自分の創造主を覚えるということは、造られた私たちの命を守って下さる方を覚えるということでもあります。生と死の上に君臨さられる方を覚えることで、この方を抜きにして私たちの老いることや死を考えることは出来ません。コヘレトは続けて「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」と語ります。コヘレトは神を抜きにして死を考えることは耐え難いことであることを語っています。年を重ねていくごとに、目、耳、歯、手足等などが衰えていくことを身をもって体験していくことですが、同時にそれは死へと向かう歩みでもあります。死は滅びであるがゆえに、耐え難いものとなっていきます。そこでコヘレトは「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と語ります。

 死に向かいつつ、同時に創造主を心に留めることは、すぐに簡単にできると言うものではありません。それこそ「青春の日々に」ということです。目が衰える前に聖書を読み、耳が衰える前に神の言葉を聞き、言葉が出なくなる前に神を賛美するのです。そうして死に打ち勝つ命を内に得ていくのです。祈祷会に60代、70代の方々が、あそこが痛い、ここが衰えたと言いながら集っています。聖書の話しを聞き、祈り、賛美し、そして楽しい交わりをして帰っていかれます。でも、考えてみと明日より今日は若い、来年よりも今年は若いのです。その日、その日を青春の日々として、神を覚える日々として過ごしたいものです。これが人間の原点です。そこでは年齢が問題ではないのです。

投稿者: 日時: 13:51 |

人間とは何者かⅠ

 とりとめもない話しを綴って行くことになるかも知れませんが、皆さんのキリスト教信仰を理解する上での一助になればと思い、また教会の交わりについて少しでも興味を持って頂くきっかけになればと願っています。
1、人間とは何者かⅠ
 何か哲学的なことを述べようと思っていません。しかし人間は根本的な問いを発するものです。例えば、ある雑誌に「人間はなぜ働くのか」という問いに対して、第一に「収入を得て安定した生活基盤を整える」を挙げていました。それは大きな理由です。しかし人が働くのはそのためだけではないように思います。金儲けのためだけでは何か空しいものが心に残るだろう。「自分はこの分野で自分の能力を発揮してみたい」という思いもあります。更には「人のために、社会のために何か役に立てば」そんな思いもあるかもしれません。向上心、責任感そんなものかきたてられてこそ充足感というものが生まれてくるものです。これが働く事の説明になるかどうか分りませんが、不思議に人は単に物質的なものだけでは満足しないものを持っています。
 そうした精神性というのはどこから来るのだろうか。旧約聖書の創世記で人は神の「かたち」に似せて造られたと述べられています。神に似ているということですが。人が創造されるときに、「神の息」を吹き込んで人は生きる者となったと言われています。これによると人は霊的な存在ということです。神と交わりを持ちながら、即ち神を礼拝しながら生きていく者です。その神から、世界を創造した神から人間に対して、この地を治めるようにと命じられました。ですから「働く」ということはこの地を治めるということになります。ではどのように治めていくのか、神の御旨を尋ねながらということです。その神の御旨を知るために私たちに聖書が与えられているのです。創世記の1章の終りで神は天地を創造して「見よ、それは極めて良かった」と語っています。今、この世界を見て果たしてそのように言えるだろうか。その御言葉を覚えつつ、「地を治める」働きを進めたいものです。
 教会のシンボルは十字架ですが、縦の線が神と私の交わり、礼拝といってもいいでしよう。横の線が人間と人間の関係、働くという事もその一つと言えます。ここで私が言いたいことは、人間として縦の線を持つと言う事です。自らの在り方、生き方を決めていくような思想がしっかりと持つ。そこで初めてそれを具体的に展開していく仕事というのもまた見えてくるのではないでしょうか。
 ついでに述べておきたいのですが、先に人は神の「かたち」に似せて造られたと書きました。すべての人はこの神の「かたち」をもっています。その意味で人は神の前に平等です。世の中は能力とか人種とかによって差別をしますが、神はそこを見ないで、ご自身の「かたち」に似せて造られた私たち一人一人を見て下さるのです。神の目に私たちは貴い存在なのです。その視点で自分を見、また他者もそのような目で見るのです。そこに新しい人の関係が生まれてくるのではないだろうか。
 ある青少年に関係するような雑誌を見て、少し感じたところから書き始めました。このようなことを少しずつ書きながら、様々なテーマを取り上げて、キリスト信仰の視点から述べて見たいと思っています。

投稿者: 日時: 15:41 |