2007年08月のアーカイブ

人間とは何者か Ⅹ

 今朝のニュースを聞いている、現在アフガニスタンで「ケシ」の栽培がかなり増えているとうことです。その場所は南部のほうで、タリバンの支配地域とのことです。彼らの資金源とするためだそうだ。しかし面白いことに、タリバンがアフガニスタンを支配している時は「ケシ」の栽培を禁止していた。確か以前、新聞でイランでも薬物の乱用が増えていると読んだことがあり、そこでイスラムの教えに反することが語られていたように思います。だとするとイスラムの原理主義者としてのタリバンとして、ケシの栽培の禁止するのは当然なのだが・・・。立場が変われば、金を得るため、敵を倒すために止む無しということでしようか。イスラムの教えはどうなっているのかと考えてしまいます。単なる貧困の問題だけではないように思います。

 キリシタン時代の布教長カブラルは、大名たちは打算的だと言って非難しましたが、確かにそういう面はあります。彼の前任者、トルレスの時代に平戸の港にポルトガル船が入港して、貿易も盛んに行われていました。その平戸の領主松浦隆信が布教を許したのは貿易が目的であった。それは後に、大名として初めてキリシタンになった大村純忠の領地であった横瀬浦、そして福田港へとポルトガルの貿易が移っていくのを松浦は我慢が出来ず、福田港を襲ったことでも明らかです。ですからカブラルの言葉はあたっているのだが。しかしイエズス会も左手に宣教、右手に貿易という手段をとってきたのだから、「大名は打算的だ」と非難するのはおかしいと言わざるを得ない。

 今、祈祷会でローマ書を学んでいるのですが、3章4節「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」とあります。関根正雄は「信仰とはこれに尽きる」と言ったそうです。信仰とは、「あなたはご自身の契約に対して真実です」と告白することです。そして「私は偽り者です、しかし信じます。弱い私を助けてください」と祈ることです。要するにイエスの十字架と復活を受け止めることであります。神の真実が人間の真実を呼び起こすのです。そこで教会ということを考えると、そこに様々な人が集っています。悩み苦しみ、そしてともに神に祈り、また理解したり誤解したり、先に歩む者、後から歩む者がいます。信じようとして信じられない者もいます。それらの者たちが出会い、ともに生きる場所です。そこに何か人間を越えたこと、聖霊の働きが起こる場所であるがゆえに、神は真実な方であり、人間は偽り者と、そこで初めて告白がなされるのではないかと思います。

 ちなみに、大村純忠が入信したのは、彼が宣教師館を訪れ、修道士フェルナンデスから天地創造、アダムの罪、人間の堕落、三位一体、人間の救済、最後の審判などの説明を受けている。純忠は「心が和み大いに得るものがあった」と語ったという。後に家臣を通して入信する決意を伝えている。その他の様々な資料は彼が単に貿易目的で入信したのではないことを物語っている。

投稿者: 日時: 14:00 |

人間とは何者か Ⅸ

私は、サッカーはあまりよく分からないのですが、22日に行なわれた日本代表とカメルーン代表との戦いを面白くもさせてもらいました。アジア大会第四位でありましたが、アフリカナンバーワンのカメルーンに快勝しました。選手のほとんどが選手がヨーロッパなどで活躍しているとのことで、素晴らしいと思いました。後半戦は押されぎみで、やはり実力者たちだと思います。そうした中で、DFがしのぎ、そのDFの闘莉王が最初のゴールをヘッドで決めたことは面白いと思う。しかしその後に放送されたU-22の代表のベテナム戦は、見ていて明らかに実力の差を感じさせる試合であったのにも関わらず、辛勝したという感じでした。見ていてこの二つの試合の違いがなかなか面白かった。

 なぜ、そうなったのか私には分らないが、ただ。一人の型破りなDFだけでは終らない、機会があれば、スキがあればゴールも決めていく、彼の存在が大きかったのかも知れません。そんな選手はU-22の代表には見られなかったように思います。彼の気概が他の選手にも影響を与えているのかも知れません。それによってチームプレーを強めたのかもしれません。それでカメルーンの攻撃をしのいだとは言えないでしょうか。少し闘莉王をほめすぎでしょうか。いや、もしそうだとするとオシム監督が彼を選び、彼を生かしたということになり、監督の采配が生きていた試合だったと思います。

 しかし、型破りな人間を組織の中に加えていくというのはなかなか難しい面が確かにあると思います。チームワークや秩序を乱す。厄介者扱いにされます。しかし逆にその人の賜物が生かされたとき大きな力を発揮することにもなります。だが何らかの組織を監督する者にとって大切にするのが秩序です、それを乱す存在が入ってくるのは避けたいと思うものです。

パウロはエフェソの教会を3年の時を費やして形成しました。しかし次の働きのためにそこを去らなければなりませんでした。その時に語った言葉が、使徒言行録20章32節の言葉です。
「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねます。この言葉は、あなたがたを作りあげ、聖なる者とされたすべての人々とともに恵みを受け継がせることができるのです」
これはエフェソの教会の長老たちに語った言葉ですが、神の言葉が彼らを成長させ整えまた生かして下さることを信じて、人を受け入れていきたいものです。私たちの教会を形作っている一人一人がどのように神に生かされ、用いられるのか、楽しみになってきます。

投稿者: 日時: 00:13 |

人間とは何者か Ⅷ

 数日前、のラジオを聞いていると、知っていることですが、戦争中というのは極めて厳しい食糧難であった。そもそも戦争というのは食糧難を起こすものだということです。現在、日本は食糧の自給率が低い。高いほど安心であるが、ラジオによると太平洋戦争の開戦前は食糧の自給率は100%であったとのことです。その意味で、現在、日本に食糧が供給されているということは良いことなのかも知れません。しかしそれにしても日本の食糧の消費量というものが、能力以上に多いのではないかとの話しである。一つの見方として、食糧を外国に頼らざるを得ない、程度の問題はあるが、平和の道を歩まざるを得なくしているとも言えるかも知れません。

 いつの時代も、どの世界においても関係を保つということは重要なことです。そのことは教会においても例外ではありません。ザビエルが来日してから30年でキリシタンは約数十万人になっていたといわれています。巡察師ヴァリニヤーノが1579年に来日。当時の日本の布教長はカブラルであった。彼はスペインの貴族の出で、ゴアの神学校で教授も務めたことがあり、優秀であったが、しかし彼の日本人観が極めて悪く、カブラルは、日本人は偽善者だと述べている。そのことが日本人信徒や修道士に影響しないはずがありません。彼を助けて働いていた日本人修道士が、彼から離れていってしまう。連れ戻すのに大変苦労したようだ。そういうこともあって彼の日本人観はいっそう悪化します。その彼の日本人観が、差別をうみ、日本人修道士たちに自分たちと同じ服装をすることを許さず、教育においても日本人にラテン語を教えなかったりしたようだ。

 そういう危機的な状況の中でヴァリニヤーノは和合の努力をすることになります。彼は1580年に「日本布教長内規」というのを出しています。そこで次のように述べています。「食事、衣服、その他も同じようにせねばならない。・・・日本人とヨーロッパ人修道士、それぞれ同列にあるべきである。両グループの融合の最大の妨げとなっているのは、・・・習慣がまったく相違している事である。我らにとって礼節に叶い、善い教育、行儀・・と思われる多くのことが、日本人には感情を害することになる。だが、我らは彼らの国に住んでいるのである。それ故に我らは彼らの習慣に順応せねばならない。・・・」。その後、彼らは日本の礼法を学び、努力する事になります。

 カブラルは同僚の司祭との間にも確執があり、以前いたマカオから引きずっている。日本人観においてもその司祭とは180度違うのである。カブラルは布教のために大変努力した人のようだ、それだけにヴァリニヤーノは心を痛めたのである。キリシタン史を見ていると人間的な面が正直に表されていて面白く、また信仰に従ってヴァリニヤーノのように対応していく人々もいて、色々と学ぶことも多くあります。このような問題を抱えながらも平和の福音が伝えられて来たのです。神様の憐れみとしかいうよりほかありません。それだけに、単純ではないが、平和の福音に生きることとはどういうことなのかを祈り求めなければならない。ともかくも謙虚にならなければ御声は聞こえてこないのかも知れない。それは双方にいえることで・・・・。そこでどういうリーダーシップがはっきされるかでしょう。

投稿者: 日時: 15:10 |

人間とは何者か Ⅶ

 聖書の翻訳というのはなかなか面白い。海老沢有道の「日本の聖書」にその歴史が述べられている。先人たちは様々に苦労はようだ。しかしその翻訳が日本宣教に大きく影響していることも、この本を読めば見えてくる。

 「日本の聖書」の中にギュツラフ訳が引用されているので、その一部、ヨハネ伝の冒頭ですが「ハジマリニ、カシコスモノゴザル、コノカシコイモノ、コクラクトモニゴザル」とあります。「言葉」を「カシコイモノ」、「神」を「ゴクラク」と訳しています。海老沢は漂流民の理解に従ったといっている。なかなか面白い。それはキリスト教に触れたことがない者が、特に仏教の背景を負っている者が翻訳に関わったのだからやむを得ないであろう。しかしこんな話しもある。「神」を「大日」と表現をした。それがひわいなことの隠語であったために、「大日を拝め」という宣教師の言葉に人が笑ったという。言葉とは、それが出てきた背景を失うと誤解を生んでいく。

 ルカ8章2節に「悪霊を追い出して病気を癒していただいた何人かの婦人」と訳されている。しかし原文を直訳すると「悪い霊と病が癒されたところの数人の婦人」となる。更に、9章1節で、「12人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能をお授けになった」と訳されている。これも原文を訳すると「そして、12人を呼び集め、彼らに全ての悪霊と病気を癒す力と権威を彼は与えた」となる。新共同訳と原文との間に少しニュアンスの違いがあるのが分る。この二つを見る限り、当時の人々は悪霊に取りつかれることと、病気を同じように見ており、特に当時としては原因が分らず、治すこともできない。諦める以外に道がない、そのような病を悪霊に取りつかれたと見ていたとも、原文から解釈ができます。それをさけるために悪霊と病気とを分けるために「追い出す」「打ち勝つ」という言葉を付加したのかとも取れる。むろんルカ伝全体の文脈の中でこの個所を訳者は捉えていると思うが。私は知識の乏しい者だが、書き手や翻訳者の真意を探るのは面白い。・・・・この理解がささやかな誤解であればと思う。

 人を理解(翻訳)するということは極めて難しい。ある人が言った「人を理解したとは、ささやかな誤解である」。私も理解されていないと感じることが時々ある。説明をしても分かってもらえない、いや、分ろうとしない。そんな時、あえて説明をしないことがある。説明すること自体がしんどくなる。それも仕事の内かとも思っているが・・・・。ともかくも、人間関係で誤解を免れることは出来ない。ですから、そのことのゆえに人が傷ついたり、窮地に立たされたりすることがないためにも、「ささやかな誤解」をしているという謙虚さが、人と関わるときに必要なのかも知れない。

投稿者: 日時: 15:03 |

人間とは何者か Ⅵ

 私も、ご多分に漏れず携帯電話を持っています。それほど多く利用しているということはふありません。電話とメール以外に使う事はありません。でも時々、本当にあってよかった、というその便利さに感謝する事があります。例えば、人と待ち合わせていて、何かの理由で会えなかった時に、すぐに相手と連絡が取れて会えたりします。そんな時は、本当に助かります。それから遠方に出かけるときなどは、これは必ずしも便利とは言えないかもしれませんが、連絡が取りやすい、ということです。牧師ですので、急に教会に帰らなければならないことも起こるのです。

 しかし、携帯電話という道具は、人間が作り出した便利のよいものですが、必ずしも人間に幸いだけを届けてくれるわけではありません。私はPTA活動に関わっていた時に、聞く事の多かった事は子供たちへの悪影響であります。むろん使い方であるが、しかし子供たちには確かに誘惑にさらされる機会は多くなったと言えます。どう使うかその人間しだい。よく自己責任という言葉を聞きますが、果たして、それを提供していく大人の社会ですが、人間の弱さというものを知りながら、これに限らないのだが、自己責任と言い放ってすむのかな? とも思うのです。

 聖書は、人間は弱さ、罪を抱えている、ということを語っています。ですから福音の中心は信仰による救いということです。確かに、人間の業は神の基準に耐えられません。ですからパウロにとってキリストを抜きにしての神の救いはあり得ないのです。だからこそ神はキリストにある信仰による義を宣べつたえさせるのです。しかしこの義は、人間のよき業を行うべきという、神の教えを骨抜きなしてしまうわけではありません。むしろ信仰によって救われた者は、その恵みのゆえに、その応答として良い事を行うことへと、私たちの人生の舵をとらせるのでもあります。そういう意味で、信仰による救いは、よき業を生んでいくのです。しかしそこで覚えておかねばならないのは、どのような良い行いの中にも、聖なる行いと思われる事柄の中にも罪をはらんでいる現実があるということです。ですからキリストへの信仰のみということです。

 人間の罪のゆえに良い事も罪の道具と化していきます。「良いことをするという業績」になっていきます。そうなることによって人は罪の奴隷となります。人は行いに励むことによって、それが自分の誇りとなり、他人を裁き、自分はあの人よりも少しましな人間だ、そういう自己満足という罪を犯すことになります。

 洗礼について、よくキリストと共に死に、キリストの復活と共によみがえることだといいますが、ですから言い換えれば、そのキリストの死と復活と一つになることだ、ということが言えるかも知れません。

 人が生きていくという現実の中に罪がからみついています。このことは否定できませんし、また取り去ることもできません。妙な表現ですが、病と長く付き合っていかなければならないように、罪とも灰になるまで付き合う、戦うことになります。それが信仰生活というものです。罪を犯したくなければ部屋に一人こもって、誰とも会わない、話しをしないことです。しかしそんなことは不可能ですが、たとえ部屋に一人こもっていたとしても、その者の内には罪があり、死ぬべき者としてそこに存在しています。罪との関係はそう簡単にはいきません。前回の文章で関根正雄のことを引用しましたが、徹底的に自分の信仰のなさをぎりぎりまで知るべきでしょう。でなければ「信仰」ということすら自分の誇りにしてしまうからです。どのような誇りであったとしても、無論、生きる上で誇りは必要な事ですが、しかしそれが悪魔の道具と化して、他者を裁く思いが生まれてきたりします。私たちは徹底的に「キリストの恵みあってのみ生き」ざるを得ない者なのです。それが私たちの行いではなく、キリストが私たちのうちにあってなしたもう神の御業なのです。このことを私たちは信仰の歩みの中で少しでも味わうことができたら何という幸いかと思います。

投稿者: 日時: 16:56 |