人間とは何者か Ⅴ

 もう退職されていますが、先輩のある牧師が、以前にこんなことを言われたことがあります。「教会こそ人の罪があらわにされる」とです。教会に行くと「つみ、つみ、つみ・・・・」と言われて、まるで理髪店のようだと言われた先生もおられましたが、人の罪の現実というものは、どこでも見られることですが、特に教会ではよく見えるのかも知れません。

 キリスト教の二千年の歴史の中で様々な過ちを犯してきたと思います。それを紐解く必要もないでしよう。1549年にザビエルが来日して日本の宣教が始まりましたが、その宣教は容易ではありませんでした。迫害が起こり、多くの殉教者の血が流されました。そんな歴史の中で、あるイエスズ会の布教長は、日本の宣教を勧めるために自国の軍隊の出動を要請するような手紙を書き送っています。巡察師のヴァリニヤーノは反対の手紙を送っており、無論それは実現していません。これは宣教ではなく、侵略になってしまいます。余りにも困難のゆえにそんな思いすら生み出してしまうのでしょう。それは人間がもっている弱さであり、罪と言えるでしよう。あるいは厳しい迫害の中で転んだ宣教師をおり、それだけでなく更にキリシタン迫害のために協力したと思われる人々もいます。それも単に人間の弱さとしてすまされないものがあるでしよう。しかしその彼らを誰が攻められるのかとも思います。同じ根っこを抱え持っている人間の一人として。確かに人が生きていくとき、罪もからみついてくるものです。切っても切っても切れない、まるで病気と付き合っていくように付き合わざるを得ないようなところがあります。

 しかし、神は一人一人の行いに応じて裁かれるという点を考えると、人間とは弱い者ということだけですまされないものがあります。それだけにキリストの罪の赦しの恵みのありがたさが身にしみて分ります。今、祈祷会でローマ書を学び始めていますが、あるローマ書研究の書物の中で、関根正雄氏の言葉を引用して次のような事がことが書かれて今した。「『信仰による義認ということと行いによる聖化との間の緊張関係』、つまり『信仰とは幼児のごとく本当に日ごとにいただくもの、徹底的に自分に死んで(自分の信仰のなさをぎりぎりまで知らされ)キリストにあってのみ生きること』、それが『もはや我々の行いではない、キリストがこの私の中でなしたもう(聖なる)行い』」とであります。その意味で私たちがキリストによって生かされる、という信仰の営みの中で、私たちが新しくされる、そのことを私たちは深く味わう必要があるでしょう。

 誰かがではありません。私も今はこうして牧師をしていますが、献身の歩みを始めたとき、躓きを覚えた事があります。私は先天性の弱視ですが、それを攻撃する言葉を投げかけられた事があります。生涯の中で一般の人々からでも言われた事のない差別の言葉を聞かされて、なさけなくて涙が出てきましたが。その方は当時、色々と困難にぶつかっていたので、気持がイライしていたことは知っているのです。そういうものが心の動きの中にあったのでしよう。私が躓いて、怒り、ことを荒らげなかったことを今はよかったと思っています。信仰深いからというのではなくて、忍耐が与えられたことは感謝です。荒らげたとしてもいい結果は出なかったでしよう。

 主イエスは和解の主、関係を作り出す主とも言えます。だとしますと、私たちは関係を壊すのではなく、作り上げていくべきでしょう。躓くことがあったとしても、そのことのために一歩一歩、祈りつつ前進したいものです。

投稿者: 日時: 2007年07月31日(火) 14:47