人間とは何者か Ⅱ

 先週、いつもお交わりをしていただいていた牧師が50代後半で召され、その葬儀に出席させて頂きました。その教会は複数の牧師によって牧会されている教会で、主任牧師が司式をされました。司式者の先生は引退を考えておられたのでしよう。ご自身の葬儀を召された先生にお願いするつもりであったことを語っておられましたが、さぞかし無念であったろうと推察しました。しかしその場にいて、深い悲しみと共に慰めと暖かさに満ちた葬儀でありました。「先生は、このような暖かい交わりの中で働かれ、この交わりから天国へと送られたのだ」と思い、残念な思いはありますが、幸いだったなと感じたしだいです。

 人生の終わりは順番通りにいくとは限りません。順番が狂うと悲しみはいっそう深まるものですが、しかし順番はともかく誰しにも訪れることです。普段の生活の中で私たちは忘れているが、いやむしろそれと正面から向きあうことを避けていると言えるのかも知れません。思い出したくないと思っています。人間にとって死は忌むべきものとして存在しています。しかしそれとどのように向きあっていくのか、人生にとって大切なことであります。

 旧約聖書のコヘレト12章1節に「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とあります。別の訳では「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」となっています。自分の創造主を覚えるということは、造られた私たちの命を守って下さる方を覚えるということでもあります。生と死の上に君臨さられる方を覚えることで、この方を抜きにして私たちの老いることや死を考えることは出来ません。コヘレトは続けて「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」と語ります。コヘレトは神を抜きにして死を考えることは耐え難いことであることを語っています。年を重ねていくごとに、目、耳、歯、手足等などが衰えていくことを身をもって体験していくことですが、同時にそれは死へと向かう歩みでもあります。死は滅びであるがゆえに、耐え難いものとなっていきます。そこでコヘレトは「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と語ります。

 死に向かいつつ、同時に創造主を心に留めることは、すぐに簡単にできると言うものではありません。それこそ「青春の日々に」ということです。目が衰える前に聖書を読み、耳が衰える前に神の言葉を聞き、言葉が出なくなる前に神を賛美するのです。そうして死に打ち勝つ命を内に得ていくのです。祈祷会に60代、70代の方々が、あそこが痛い、ここが衰えたと言いながら集っています。聖書の話しを聞き、祈り、賛美し、そして楽しい交わりをして帰っていかれます。でも、考えてみと明日より今日は若い、来年よりも今年は若いのです。その日、その日を青春の日々として、神を覚える日々として過ごしたいものです。これが人間の原点です。そこでは年齢が問題ではないのです。

投稿者: 日時: 2007年07月10日(火) 13:51