ラジオ体操

 学校が夏休みに入り、1丁目の公園でラジオ体操がはじまった。朝の六時半から始まるのだが、子どもたちは既に集まっている。地域の子ども会の主催ですが、前に立っているのは1丁目の自治会長さん。休まずに朝出てこられている。第一体操は覚えているのだが、第二体操はどうもウル覚え。間違いながらもついていくのだが。教会の夏期学校でも朝行うのですが、一年に一度で、なかなか覚えられない。一年に一度だからと言い訳をいうのだが。しかし毎朝、公園にいって体操をして一日始めるのは気持ちがいい。少し牧師としては変なコメントですが(朝は御言葉から、というのが普通)。

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1丁目の公園でのラジオ体操

 しかし、理屈を言えば、体と心と霊は一体。肉体を視野に置きながら天的な力を覚えるのが大切なのだ。“主の祈り”の第四番目の祈りは「我らの日用の糧を今日も与え給え」というものだが、この「日用」という言葉は原語学的にきわめて珍しい言葉で、聖書にはほとんど出てこない。マタイ伝6章11節に見られるが。学者によると、パピルスにこの言葉が見られ、“次の日のために”という意味で使われているのだそうだ。それで「日用」とか「必要」というように訳される。

 面白いことに、ここで祈られているのは肉体的な必要です。霊的なことが問題になっているのではない。イエスは、荒野の誘惑で、空腹を覚え、サタンから石をパンに変えてみろと誘惑されたときに、“人はパンのみによって生きるにあらず”と答えたし、またヨハネ伝では“私は命のパンである”とも言っている。そのイエスが、この主の祈りを教え、肉体的なことのために祈ることを教えている。肉体的なこと、物質的な必要のことも視野に入れながら、天の父を覚えてこそまことの霊的なことになるのだ。すなわち地上的なことは天の父によって支えられているということである。

 そのように教会は生きている。教会も地上にある限り肉体を持っている。そしてその必要もお願いをしている。それが今で言えば夏期献金のお願いといえるし、それが皆さんの具体的な教会の諸活動における働きだ。その必要を天の父が支えてくださる。その教会という肉体に与えられている能力、あの教会、この教会、能力には差がある。いや、“ありすぎだ!”とすら思う事もあるのだが。言っても仕方がない、与えられたところで感謝する、いや、この感謝こそが大切だろう。まず感謝して受け入れ、そしてそこで私たちには何ができるのか、できるところを模索するのである。やみくもに“あれが足らない”“これが必要”と叫ばない事、まず祈り、神が我々に与えられている賜物でできることの最善を求めよう。天の父が備えられる。それが主の祈りの教えである。

 さて、1丁目のラジオ体操に戻るが、いつまで続くのかというと1週間である。短い! と会長は言う。そのとおりだと思う。しかし助かる。なぜ、私が朝のラジオ体操に出ているかと言うと、自治会の副会長をしているのだが、今年は“子ども会の担当”と言われているからだ。すべてお母さん方がされるので私は出るだけだが。私が子供のころもやはり朝のラジオ体操はあった。そしてこんなに短くはなかった。あの時のように長くあると、出るだけでもなかなか大変だ。

 しかし、いつ頃から夏休みのラジオ体操が始まったのか、知らないのだが、恐らく個人主義の強い世界では、毎朝に一箇所に地域の子どもや大人が集まって、規則正しい体操をする、それも毎日するというのはないだろう。日本的というか、東洋的と言える。それが何やかんやといいながら今日まで続けられてきている。一つの文化と言えるし、民族性というものが現れているように思う。でも、これからは本当に地域のつながりが必要になってくるように思います。そうした地域の中で私たちはここで礼拝をしている。私たちは存在をしています。その図式を頭の中に浮かべてみる。

投稿者: 日時: 2009年07月29日(水) 15:15