男の料理教室

 この日曜日に“男の料理教室”というのを初めて行いました。日ごろ厨房に入ったことのない者たちが、レシピを片手に、“塩が何グラム、砂糖が何グラム”“この焼き加減はどうかな”と戸惑いながら、また包丁を片手にねぎを切っていく。それを指導し、また手助けをする婦人たちが大変だったろう。ハンバーグを作り下が、とても美味しく作ることが出来ました。写真は自分たちが作った作品を前にして、満足げな壮年たちである。しかし、家庭では、まだまだ通用するようなものではない。

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 今回の料理会で面白かったのは、包丁をもってねぎを切り、肉をこねる人がいると思えば、周りから色々と能書きを言いますけれども、手を出さない人がいて、とても面白かった。冗談を言い合いながら、和気藹々と作りました。

 “男子厨房に入らず”と言われますように、最近こそ、あちらこちらで“男の料理教室”というのが行われていますが、社会のありよう、家庭のありよう、そして夫婦関係のありようも大きく変わったということでしょう。今では“主夫業”という言葉もあるのですから。しかし、そこで思うのですが、人生仕事だけではないということです。家庭の中で、仕事以外で、何か存在感を示せたら楽しいでしょうね。“粗大ゴミ”“濡れ落ち葉”などと悪口を言われる存在とならないために。

 詩編121編8節に「あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」という歌があります。これは日々の生活の守りを祈っている詩です。朝起きて身なりを整えて仕事に出て行きます。そして夕方我家に変え追ってきます。そのような日常の姿ですが、休日の日でも家族へのサービスに男料理を振舞ってみるのも楽しいでしょう。そのような家庭の沸き会々が、さらに仕事への励みになるかも知れません。帰宅が楽しみになってくるでしょう。

 年齢を重ねてきますと、誰でも、自分の人生はこれでよかったのだろうか、と思うことがあるものです。一体、自分は何をしてきたのだろうかと思うのです。もちろん仕事は大事でしょう。しかしそれだけで済むのでしょうか。私たちはいつの日か、この地上での人生を終えるのです。そしてどこに帰っていくのでしょうか。帰っていくべきところを持っているまでしょうか。先程の詩編で日々の暮らしの平安を祈った詩だといいましたが、「あなたの出で立つのも帰るのも」というのは、「とこしえに」という言葉があるように、これは同時に人生の終わりに帰っていくべきところのためにも祈られているのです。神の家庭の喜びを味わい知るようにと、聖書は神と共に生きることを勧めているのです。

 その神の家庭の喜びを知っている者の詩、これはニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁にかけられたある患者の詩です。
「大事を成そうとして/力を与えて欲しいと神に求めたのに/つつしみ深く/従順であるようにと/弱さを授かった/より偉大なことが出来るように/健康を求めたのに/より善きことができるようにと/病弱を与えられた/人生を享受しようと/あらゆるものを求めたのに/あらゆることを喜べるようにと/命を授かった/求めたことは一つとして与えられなかったが/願いはすべて聞きとどけられた/神の意にそわぬ者あるにもかかわらず/心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた」。

たとえ人生思い通りにすかなかったとしても、神を愛し、神とともにある人生は、満たされているのです。なぜなら喜んで迎え入れてくれるところがあるからです。

“男の料理教室”についての問い合わせは教会へ。

投稿者: 日時: 2009年04月21日(火) 22:51