正義とは?

 この時期は花見が盛んに行なわれています。私たちの教会も4月5日に、近くの公園に行きまして“花見昼食会”を、壮年と婦人が合同で行いました。公園に行った人たちはお弁当を取りましたが、教会に残った若い人たちは、自分たちで“お好み焼き”を作って食べたようです。どちらが美味しかったのか、それぞれ自分たちのほうだと思っているでしょう。桜も美しく、気温も暖かく、とても気持ちのいい昼食会でした。

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 その昼食会の時に雑談をしている時に、ある壮年の方が携帯を見まして、“北朝鮮が午前11時半ごろにミサイルを発射したようですね”と言われました。気になっていたのでしょう。私は礼拝のことなどで、つい忘れてしまっていたようです。11時半と言えば、私たちがまだ礼拝をささげていました。その時に日本の上を飛んで行ったわけだ。これを何と考えたらいいのだろう。ある政治家が“主権の侵害だ”と言っていましたが、確かにそうです。了解もなしに、事故が起こり、日本に落下物があれば大変なことになるのだから、当然、無断で飛ばすということはあり得ない、それが常識でしょう。それをあえて行う、そこには日本に対する何かがあるのでしょう、いや、それ以上に世界にアピールしたいものがあるのでしょう。その前には日本など小さいのです。

 色々と憶測は出来ますが、要するに“力こそ正義”という考えが根底にあります。かつて日本もその考えに従いアジアに進出していきました。欧米もそうでした。世界はまさにパワーケーム。

 “正義”とは何でしょう。「義」という言葉は聖書独特の表現だと言えますが、詩編31編1節をみて見ますと、新共同訳は2節になりますが。
口語訳「主よ、私はあなたにより頼みます/としえに私をはずかしめず/あなたの義をもって私をお助け下さい」。
新共同訳「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。」
また、イザヤ59章17節では、口語訳「主は義を胸当てとしてまとい」とあり、新共同訳は「主は恵みの御業を鎧としてまとい」と訳しています。このように「義」という言葉を新共同訳では「恵み」と訳していますし、詩編から考えますと、「義」という言葉を、神の恵みの御業として捉えていると見ることが出来ます。

 旧約聖書のルツ記には、ボアズの畑に行って落ち穂を拾うルツの姿があります。ミレーの「落ち穂拾い」は有名な絵画ですが、昔、イスラエルには貧しい者たちのために、畑の麦をきれいに刈り取ってしまうのではなくて、貧しいものたちが後から来まして拾うことが出来るようにと、意識的に残しておいたのです。これがイスラエルの正義であったのです。

 「義」を「恵みの御業」として捉えるわけですが、パウロはローマ3章22節で「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」と語っています。ですから「義」には、神との正しい関係をも意味している面もあります。その正しい関係をイエスが与えて下さったのです。それが福音なのであり、それこそ恵みの御業の内容なのです。

 罪に苦しんだルターは、福音を再発見したわけですが、ローマ1章17節に、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」。神が御子イエスをこの世に送り、私たちの罪の裁きとして御子を十字架につけられて、私たちの身代わりとされました。そして三日目に甦られて、永遠の命を私たちに備えて下さいました。そのような神との正しい関係を得るためには、私たちの何かではなくて、ただ神の恵みの御業を、信仰をもって受け入れるだけだということです。この神の正義によって私たちは救われたのです。

 “正義”、それは小さい者への憐れみであるならば、この世界は神の御旨から大きくずれていると言わざるを得ない。そうした中で、教会の交わりこそ、正義とは何かを世に示していける器であり、また、そうあり続けたいものである。

投稿者: 日時: 2009年04月08日(水) 22:23