2008年11月のアーカイブ

メール、届いていますか?

 先週、関西盲人宣教会から機関紙「道」の巻頭に載せるメッセージを頼まれた。その依頼の電話で、“先生、三回ほどメールを送りましたが、届いているでしょうか”という言葉で始まった。依頼者は既に三回ほど私のところへメールを送ってきているのである。私は、“届いていませんが”と答えた。確かに届いていないのである。彼曰く“プロバイダーの・・・・とニフティとは相生が悪くて届かないことがあるのです”というものだった。私は内心、“もっと早く連絡をくれれば良かったのに”と思いましたが、急いでメッセージを書いて、彼の指定の違うアジレスへと送った。

 でも、メールが届かないということは、以前にも経験があり、まさに今、経験しているところである。週報を毎週、金曜日に書いて、その夜にホームページの管理をしてくれている会員の方へと送っている。それが時々届かないのである。それで今は、三通ほど送ることにしている。送った三通のうち、中には届かないのも出ているみたいである。どういう理由によるのかよく分からない。

 この日曜日は、子ども祝福式であった。十数名の子どもたちが集った。ルカ伝18章からメッセージを取り次いだ。イエスの弟子たちは、乳飲み子たちをイエスのところに連れて来た親たちを叱った。どうして叱ったのかと理由を考えて見ると、イエスが余りにも忙しいから、先生に対する気遣いからだろうと思う。確かにイエスのもとには、病人や悪霊に取り付かれた人々が、癒しを求めて押し寄せていた。そうした中で、“乳飲み子までも”構っていられないという思いが弟子たちにはあったと考えられる。

 しかし彼らの気遣いは、どうもイエスが考えておられたこととは違っていた。イエスは乳飲み子たちが自分のところに来ることを妨げてはならないといわれ、弟子たちを叱られた。恐らく弟子たちは、“自分たちはイエスに通じているのだ”と思っていただろう。しかし福音書は、例えば、マルコ伝「イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた」とあり、弟子たちのとった態度とイエスとの違いをはっきりさせている。イエスが弟子たちのとった態度を「憤る」ほどに、イエスに通じていなかったということだ。

 以前、弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いのだろう、そんなことを議論していたことがあるが、そんなことばかり考えていると、十字架の道を歩まれるイエスの思いを彼らはまったく理解できないだろう。そうした中で、自分たちはイエスの弟子で、イエスに通じていると考えていると、これはまた大きな勘違いになる。

イエスに通じる道は、ルカがわざわざ他の福音書では「子ども」と書いているところを「乳飲み子」と書いたところに示されている。乳飲み子は、ただ受けるだけで、差し出されたものをしゃぶるだけだ。そのように御言葉を無心にしゃぶりつく、そこに秘訣があるように思う。使徒言行録17章11節~12節で、ベレヤのユダヤ人たちにパウロたちが伝道した結果、「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。」とある。

 私はメールを送って返事が来ないと、“メール届いたのかな?”と思い不安になる事がある。少なくともイエスとの間でそうならないようにしたいものだ。

投稿者: 日時: 16:38 |

想像力

 数日前に用事を済ませて帰る途中の話しであるが、ある駅のプラットホームにある公衆電話の傍で電車を待っていると、学校帰りの女子高生が電話の傍にやってきて、家に電話をし始めた。何かお母さんと話している様子だが。筆者は、別に聞こうとしたわけではなく、傍にいたのでたまたま聞えてきたのであるが。どうして携帯電話を持っていなかったのか、親に持たせてもらえないのか、それとも学校に持っていってはいけないので、この時はもっていなかったのか、分からないが、ともかくも最近見なくなった姿である。

 電車の中で電話をしている姿も見なくなったが、しかしメールをしているのか、ネットをしているのか、じーっとケイタイを見ている姿はよく見る。でも、色んな形で他者とコミニケーションが取れる時代になった。しかし書かれた「言葉」というのは、時々怖いと思うことがある。保護司の研修が年に何度かあるのだが、その時に前もって「何々についての意見」というのを求められ、書いて提出することがある。それが一覧表になって参加者に配布される。神戸観察所主催の研修会の時、ある保護司が激しい意見を書いて出した。それに当日本人は休んだのだ。彼を知っている者たちは、これは“まずい”と思った。そのために“そこに書かれているようなことはなく、彼は喜んで保護司活動をしている”とある者が補った。確かに彼は、張り切って保護し活動をしている。でも私は彼の顔を見る度に、あのときの保護司の働きを否定するような言葉は何だったのだろうかと考えてしまう。「言葉」というのは本人と共にあるべきものだと思う。そこで初めて人と人との関係を作っていくように思う。そうでないと、その本来、その人が考えていたことと違った世界がそこに広がってしまう、ということがおこるように思う。

 話しは変わるが、数日前のニュースで、五、六名の中学生が「砂風呂遊び」ということをしていて、一人の子供が重症に陥った事故があった。四人の者たちが砂の中に首のあたりまで埋められ、二人の者が四人に砂をかける。自力で脱出した者は、さらに砂をかける側に回る。そして最後に残された一人の子供がみんなから砂をかけられることになる。そして口の中に砂が一杯に入っていたようで、呼吸困難を起こしてしまう。このニュースで、ふと思ったのだが、どうして中学生たちは、危険性ということが分からなかったのか、“こうした、こうなる。こうなるかも知れない”、そのへんのことが想像できなかったのかと思った。何か想像性の乏しさを感じる。

 礼拝でお話しをしたことですが、イエスの弟子たちが、イエスの名を使って悪霊を追い出している人がいて、その人が自分たちとは一緒でないという理由で止めさせようとした。それをイエスは“止めさせてはならない”と弟子たちを叱られた。自分たちと一緒ではないから止めさせる。一緒について行けない理由が彼にはある。12弟子団に加わることが出来ない信仰的な理由がある。それを理解するには弟子たちには。それを思い巡らす想像力が必要である。同じ教会の中でも、それぞれの生き方がある。信仰生活のスタイルがある。私だけが正しい、と思い込むのではなく、どういう理屈で一緒になれないのか、それを思い巡らす想像性が必要なのである。そしてそれと共に、主の御名があがめられることを第一の喜びとする、この二つの思いがあれば、弟子たちは、“止めさせよう”とは思わなかったことだろう。

 そのような思いが弟子たちに育たなかったのは、イエスがどうして苦しみを受けなければならなかったのか、それが分からなかったからだと言える。それにしても弟子たちは二度にわたってイエスの受難について聞いておきながら、あえて尋ねてでも詳しく聞こうとしなかった、その弟子たちの姿勢に原因があるのかも知れない。

 さて、どんな姿勢でイエスと向き合い、人と向き合っているのだろうか。そこで思い巡らし、想像力を発揮して理解しようとしているだろうか。凝り固まっていては想像性は出てこない。

投稿者: 日時: 21:54 |

宗教とは

 鈴木大拙という人が、宗教について四つの点を挙げて下記のように語っている

一つは、社会的事象としての宗教。その一つに制度としての宗教集団がある。何々本山、檀家、信徒というように組織立てられた中か来る表現である。確かに宗教は社会生活の構成の一分子である。ですから宗教法人法というのが出来ているのである。

 二つ目は、儀式としての宗教。儀式のない宗教はない。経文の読み方にしても服装にしても、あるいは礼儀作法にしてもそうである。宗教のそれぞれに儀式がある。それは体と心の関係のようなもので、その宗教が持っている思想に相応しい儀式がそこにある。儀式のない宗教は体の無い心、まさに幽霊のようなものだ。儀式なくしてその宗教の生き方を現せ得ないのである。キリスト教、仏教、回教みなそうで、建物を比較してみればそれぞれの宗教の宗教感情生活の相違が出ている。

 三つ目は、知的方面からも宗教を観察する。人間の中には理性や知性があるのでこれと宗教とは切り離せない。しかし知性それ自身で宗教であることはできない。例えば、宗教は哲学の力を多少なりとも借りなければならない。

 四つ目が、道徳から宗教を見るのであるが、道徳と宗教は深い関係はあるが、宗教は道徳ではない。善人は必ずしも立派な宗教家ではないし、立派な宗教家だからといってその時代の人にとって必ずしも善人として通るとは限らない。宗教とは堂徳とは違う一方面を開拓しているのである。

 しかし大拙はこれらのものが精密に絡み合ったからといって宗教がうまれるりのではなくて、そこで重要なのが個人の体験だと言う。その体験とは平安をえること、仏教では涅槃と言うそうですが、それを言い換えて「常楽我浄」と言う。心が内外界に対して一定不変の態度を取る事が出来る。そういう平安を得るということだが。しかしそれを求める人間の不安はどうして生まれてくるのか。死を含めて総てのことに限界がある、それに気づいたとき人は不安を覚える。しかしそのことが、孔子が言ったそうだ。「十有五にして学に志す」と。その現実と自分の願う世界との矛盾を知れば知るほど、自らの内面を深く掘り下げることへと向かわせることも起こるが、この問題の解決策だが。

 大拙は「回心」と言う。人は窮すれば窮するほど、そこから脱出する。それが回心だというわけです。その脱出のための知の努力の必要性を説いている。

 私は大拙の言葉を読んでいた宗旨は異にするが教えられることもある。しかし「回心」のそれはキリスト信仰とは大きく異なる。人はどこまで自ら深めていけば平安を得られるのか、その悟りに至るのはほんの限られた人になるのではないかと思ってしまう。しかし聖書は、あなたの向いている方向を180度方向を変えて、イエスさまの方に心を向ければそれでいいと言う。そこから新たなる歩みが始まるのである。これは限られた一部の人々のものではなく、総ての人に開かれた平安を得る道である。

 最近は、無宗教の結婚式ね「人前結婚式」というのがあるようだ。「死が二人を分かつまで・・・」と神と会衆の前に約束します。彼らの結婚生活を支えるのは二人の愛であるが、その根底では二人を合わせられた神が支えてくださる。もし何かがあったときに、二人が帰るべきところがある。立て直すところがある。二人の愛を人々の前で明らかにしたからといってどういう意味があるのか。私はふと「無宗教の何々」というものに不安を覚える。何か人が根無し草のようになっていくのでは。人間の破れを塞いでくださる方が必要ではないか。

投稿者: 日時: 17:06 |