メール、届いていますか?

 先週、関西盲人宣教会から機関紙「道」の巻頭に載せるメッセージを頼まれた。その依頼の電話で、“先生、三回ほどメールを送りましたが、届いているでしょうか”という言葉で始まった。依頼者は既に三回ほど私のところへメールを送ってきているのである。私は、“届いていませんが”と答えた。確かに届いていないのである。彼曰く“プロバイダーの・・・・とニフティとは相生が悪くて届かないことがあるのです”というものだった。私は内心、“もっと早く連絡をくれれば良かったのに”と思いましたが、急いでメッセージを書いて、彼の指定の違うアジレスへと送った。

 でも、メールが届かないということは、以前にも経験があり、まさに今、経験しているところである。週報を毎週、金曜日に書いて、その夜にホームページの管理をしてくれている会員の方へと送っている。それが時々届かないのである。それで今は、三通ほど送ることにしている。送った三通のうち、中には届かないのも出ているみたいである。どういう理由によるのかよく分からない。

 この日曜日は、子ども祝福式であった。十数名の子どもたちが集った。ルカ伝18章からメッセージを取り次いだ。イエスの弟子たちは、乳飲み子たちをイエスのところに連れて来た親たちを叱った。どうして叱ったのかと理由を考えて見ると、イエスが余りにも忙しいから、先生に対する気遣いからだろうと思う。確かにイエスのもとには、病人や悪霊に取り付かれた人々が、癒しを求めて押し寄せていた。そうした中で、“乳飲み子までも”構っていられないという思いが弟子たちにはあったと考えられる。

 しかし彼らの気遣いは、どうもイエスが考えておられたこととは違っていた。イエスは乳飲み子たちが自分のところに来ることを妨げてはならないといわれ、弟子たちを叱られた。恐らく弟子たちは、“自分たちはイエスに通じているのだ”と思っていただろう。しかし福音書は、例えば、マルコ伝「イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた」とあり、弟子たちのとった態度とイエスとの違いをはっきりさせている。イエスが弟子たちのとった態度を「憤る」ほどに、イエスに通じていなかったということだ。

 以前、弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いのだろう、そんなことを議論していたことがあるが、そんなことばかり考えていると、十字架の道を歩まれるイエスの思いを彼らはまったく理解できないだろう。そうした中で、自分たちはイエスの弟子で、イエスに通じていると考えていると、これはまた大きな勘違いになる。

イエスに通じる道は、ルカがわざわざ他の福音書では「子ども」と書いているところを「乳飲み子」と書いたところに示されている。乳飲み子は、ただ受けるだけで、差し出されたものをしゃぶるだけだ。そのように御言葉を無心にしゃぶりつく、そこに秘訣があるように思う。使徒言行録17章11節~12節で、ベレヤのユダヤ人たちにパウロたちが伝道した結果、「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。」とある。

 私はメールを送って返事が来ないと、“メール届いたのかな?”と思い不安になる事がある。少なくともイエスとの間でそうならないようにしたいものだ。

投稿者: 日時: 2008年11月19日(水) 16:38