2008年10月のアーカイブ

一言居士

 ある祈祷会のメッセージ(最近は、レジメを作っている)の中で、「一言居士」という言葉を使った。このような言葉を使うと人の心を引くようだ。“一言居士、誰々さんみたいですね”という言葉が出てきたり、“高いお金を払って仏教では何々居士という戒名を買うわね”、そんな話しが出てくる。それは説教者が意図しているところではないのだが、つい横道にそれてしまう。

 「一言居士」というのは、とにかく自分の意見を言わないと気がすまない人のことであるが、悪くいえば、文句を言わないと気がすまない人のことだが、この「居士」という言葉は、もともとと徳学が高く仕官をしない人のことをいったようだが、それが仏教では、出家しないで在家で生涯修行を積む人を言うようだ。それが戒名の位としてお金で買い取られる。生涯まったく信仰と縁のなかった者が死んでからお金で「居士」という名前をもらう。どうも変である。釈迦の意図したところではないだろう。ちなみに「居士」というのは男性につけられる位である。

 それで、どうして私が「一言居士」という言葉を使ったかと言うと、ガラテヤ書はパウロの書簡だが、ガラテヤの教会にパウロが伝えて福音とまったく異なる教えを伝える人々が現われてきたので、それに対する,言わば戦いの書簡と言うべきものです。ですから大変激しい口調で語りだされている。1章のところでは「呪う」という言葉すら出てくる。しかしそれが6章に入ると一変してしまう。罪を犯した者を「柔和な心で正しなさい」という言葉が出てくる。この変化の意味について考えた時に出てくるのである。

 パウロという人物は、単なる「一言居士」ではない。ただ文句をいっている人ではなくて、バランスの取れた人物だと示しているのではないか、いや、本来は柔和な人なんだけれども、しかしどうしても怒らなければならないことが起こった、ということとして理解することが出来るのではないか。パウロにとってそれほどの重要な事柄であったということである。

 それでどうだろうか、私たちは怒るべきこと、そうでないこと、はっきりしているだろうか。どうでもいいことに腹を立てたり、怒るべきことを怒らないでいるのではないか。もし、怒るべきことを持っていたとするならば、それは何か。どうでもいいことかも知れない。パウロがどうしても怒らなければならないこととしたのは、神に関することであった。先ほどの戒名の話しではないが、どうもそれが、今日では、どうでもいいこととして扱われているような気がする。

 先日、もう私たちの教会に、20年近く来ていただいているが、保育コンサルタントの大塚先生、もう70歳になられるわけだが、いつもこひつじ園での母親教室で信仰の大切さを語ってくださる。ご自身も信仰の家庭に育ち、それこそ戦後の「ないないづくし」のなかで、豊かさというものを見て取ってこられた。それをこの度「無い無い尽くしにあったもの」という題で本にまとめられた。どれだけ神を尊ぶということが人生を豊かにすることか。計り知れないものがある。最近は世界を金融不安が襲っているが、今こそ神に富むべき時ではないかと思う。

投稿者: 日時: 22:10 |

肩書き

 ある牧師から名刺をいただいた。表には、無論、何々教会の牧師と書いてある。しかし、ふと裏を見てみると・・・、たくさんの肩書きが書いてある。いわゆる超教派での活動のその牧師が置かれている立場であるが。牧師によっては、そのような肩書きをたくさん書いている人もいれば、様々な活動はしているけれども、牧師以外の肩書きをあえて書かない人もいる。どうして多くの肩書きを名刺に書くのか、あるいはどうしてあえて肩書きを名刺に書かないのか、ひょっとしてその心の動きというものに大差はないのかも知れない。ただ、名刺の表に書かれている肩書きをどう理解し、受け止めているかが重要であろう。

 ちなみに私の東鳴尾ルーテル教会の牧師という肩書き以外の肩書きを挙げてみると(以下に述べる肩書きは名刺には書いていない)。

 超教派の活動の方では、阪神壮年員会の委員長があり、また神戸ルーテル神学校後援会役員というのもあるが、私は教会関係よりも一般社会での肩書きのほうが多い。ただ誤解しないでほうしいのだが、私は社会派牧師ではない。そんな大それた者でもないのである。

西宮保護区・保護司
西宮市立浜甲子園中学校・学校評議員
西宮市福祉委員
東鳴尾1丁目自治会副会長
鳴尾東地区青少年愛護協議会理事
鳴尾東コミニティ協議会常任理事 etc.

 見ていただいて分かるように地域活動での肩書きである。こう並べてみると、ちょっとやりすぎかな? と思いますが、確かに「しんどいな~」と思うことがありますが、だが、これは自分から進んでしたことではなく、地域の方々から頼まれてのことである。私の性格からすると、どうも頼まれると断れないのである。

 少し言い訳をさせてもらうと、東鳴尾ルーテル教会が活動の方針としてきた一つが「地域に根ざして」というのがある。その方針で長年活動してきた。いわばその信仰的な判断の流れの中で与えられた私の肩書きだと言える。好むと好まざるとに関わらず与えられたとも言える。教会とうのは、無論、この地域から来ている会員もいるが、しかし、教会として地域に根ざしていくというときに、牧師の姿勢というのが一つの鍵になると思う。無論、会員の皆さんの働きは重要ですが。

 福音書というのはとても面白い書物だ。例えば、マタイ福音書で描かれている人間像というものを考えてみると、楽観的だといえる。どういう意味でかと説明をすると、どのようなメシア像を描いているのかによるのだが。イエスは律法の新しい解釈を示している。福音書の半ばぐらいで、「『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』」(マタイ11.28以下)。ここでの律法に対するイエスの理解は、実行可能なものとして解釈し直している。神の倫理的な求めは人間の能力を越えた過酷なものではない。実際にマタイ伝が求めていることは、飢えた者には食事を与え、渇いている者に飲ませ、裸である者には着せるなど、初歩的な人間の行為である。

 さらにマタイ伝は光の比喩が多い。イエスは弟子たちに「あなたがたは世の光である」と呼びかけ、さらに「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5.16)と要求している。地域に根ざすとはこういう意味であるが、十人の乙女の譬えのように、常に油を用意しておきたいものである。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」(マタイ10.27)と言われているように、イエスの言葉と行いの光がこの無世界の中で輝き渡るためにも、イエスとの深い関わりを、日々、深めて行きたいものだ。

投稿者: 日時: 13:22 |

こどものように

 こひつじ園で9月30日に“親子で遊ぼう”を行いました。礼拝堂のイスをのけて、広くなったところを子供たちは走り回りました。楽しい一日でした。したの写真がその様子ですが、しかし残念なことに、この日、四人の子供たちがお休みでした。でも、普段よりもすくないけど、子供たちは元気にお母さんと一緒に夢中になって遊びました。
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 今、祈祷会でガラテヤ書を学んでいるのです。現在は5章に入っていまして、4節以下を10月1日と2日の祈祷会で学びました。そこで11節の終わりから12節の言葉ですが次のようにありました。「そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」。

ここでパウロは割礼のことを取り上げての言葉です。その割礼の必要性をガラテヤの教会の中で宣べ伝える律法主義者がパウロにとって我慢ならないのは言うまでもありません。割礼は肉体の一部に傷を入れることですが、その割礼をもじって皮肉に、去勢したらいいといっています。激しいパウロの表現です。

 しかし、パウロはガラテヤ5章22節以下で、寛容、自制、柔和などのことを言っています。ですから今いったことの裏腹なことになります。自分の敵に対して去勢したらいいと言うのは、これは寛容でも柔和でも自制でもありません。自分の感情をむきだしで、パウロの人間的な姿の一面を現しています。少し慎みがたりないのではないかと思います。パウロのうちにある矛盾と言えるのではないでしょうか。

 しかしパウロは福音の使徒として召されたことには変わりがありません。このように激しい言葉が出たのは、福音が危機的な状況に置かれているからです。そこから出てきているのです。そこを考えなければなりません。パウロは自分のメンツが潰されたといって怒っているのではありません。保身ではないのです。自分のためにケンカをしているのではなくて、福音がどうなるかということで戦っているのです。思わずほとばしり出たパウロの思いです。

 何か一つのことに夢中になっている子供のようなパウロを思いました。色々と足りなさはあるけれど、神様に召されたところに夢中になる、そのような子供のごとくありたいですね。

投稿者: 日時: 16:58 |