2008年12月のアーカイブ

もう一つのクリスマス会

 今日で2008年も終えるわけですが、一年を振り返りますと、教会の歩みとしては、落ち着いた平穏な歩みであったと思います。しかし恐らく会員の皆さんの中には、百年に一度だと言われるような経済危機の影響を受けた人たちもおられることでしょうし、しかし、そうした荒波の中で教会が平穏であったことは感謝なことですし、そこに会員の皆さんの祈りと奉仕があると思いますが、皆さんが教会に来られて心穏やかに過ごす、その心穏やかさをもって、もう一度社会へと出て行く、そんなところになればと願います。

 下の写真は、教会を会場にして月2度、オカリナの練習をしている、地域のオカリナグループ“オルナ”の皆さんの今年最後の練習風景です。練習を聞きに来られたら“ミニ・ミニ・クリスマスコンサート”をしますということで、30分ほどのコンサートをしてくださいました。あるメンバーの方の言葉ですが、“教会で練習をさせていただいて皆さん上手になられた”とのことですが、そんな言葉をいただけると場所をお貸ししているだけですが、感謝なことです。教会で練習することが励みになればと思います。
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 また、下記の写真は、地域の子ども会の“クリスマス会”です。地域の子どもたちが60名から70名ほど集まっていたでしょうか。楽しい時を過ごしました。このような活動を通して、地域づくりが進み、人間関係も豊かになり、その中で子どもたちが育まれていけたらと、皆さんが願ってのことです。私は少しのぞかせてもらいました。教会の夏期学校に来ていた子どもたちがいのしたが、クリスマス会にも来ていた子どもたちもいたことでしょう。改めて地域にある教会という意識を持たされたひと時です。
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投稿者: 日時: 16:44 |

クリスマスシーズン

 クリスマスの季節で忙しく過ごしていますが、次の日曜日の夜のクリスマス祝会で、教会のすべてのクリスマス関係の集会は終わります。

 14日は子どものクリスマス会でした。子ども60人、大人20人が出席してくださって楽しいひと時でした。小学校の前で200枚ほどチラシを配布し、またこひつじ園をしているので、卒園者や夏のキャンプに来た子どもたちなどにも案内を送付したりしました。そうした中で集まってきてくれた子どもたちです。お話しやハンドヘルやゲーム、そして映画などをして、帰りにはささやかなプレゼントを手渡しました。
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 さあ、子どもたちの心に何が残ったのだろうか。少なくとも子どもたちは何度も“イエス様”という名前は聞いたことは確かです。そのイエス様というのが神様だということも何度も聞いた。そしてイエス様が二千年前にお生まれになった。このこともお話しや映画でも聞いた。でも、その方と自分がとんな関係にあるのか、そこは難しかったかも知れない。でも神様は私たちに関心を持ってくれている、私に注目してくれている、ということは何となく分かったかも知れません。それを信じてほしい。何度も教会に来ている子どもたちもたくさん来てくれていたし、また初めて来た子どもたちもいた。とにかく継続して福音に触れていくのが大事だと思います。

 こひつじ園のクリスマス会も終わりました。子どもたちの演技、お母さんたちのハンドベル、ゲーム、そして子どもたちとお母さんたちのプレゼント交換、楽しいひと時でした。このこひつじ園も20年以上続けられてきました。その間、福音の種が蒔き続けられてきました。イザヤ55:11に次のような御言葉があります。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」とです。何らかの結果が出ることを信じて福音の種を蒔き続けたいものです。
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 このような神への信頼は、御言葉の正しい理解からくると思います。このクリスマス祝会にゴスペルのゲストの方々が来られるのですが、私たちの礼拝にも共にしてくださって感謝しているのですが、その時に、私たちの礼拝を経験された“カトリック的”と言われて、私は唖然としました。何処を見てカトリック的というのかと思いましたが、私たちは式文を使う礼拝ではなく、オーソドックスな礼拝です。もし私たちの礼拝がカトリック的だと言うならば、多くのプロテスタント教会の礼拝がカトリック的ということになるだろう。これって悪いけれど失礼だと思うのですね。これから活動を広げていかれるのならば、正しく礼拝とは何かを理解しないと、トンチンカンなことになってしまいます。

 まあ、このクリスマスの時、神は人となられて私たちのところまで降りてきてくださったのだ。多少の誤解も赦せるが、しかし聖書の言葉に対しては誠実に取り組むべきでしょう。それが神との正しい関係の要だからです。神との関係がトンチンカンにならないようにしたいものです。

投稿者: 日時: 17:23 |

裁判員制度が始まる

 この日曜日に、ある壮年の方から、“いよいよ裁判員制度が始まるけれども私たちはどうしたらいいのでしょうね”と聞かれましたが、これは単純な問題ではないように思えます。

 ローマ書13:1に「 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」と書かれています。ここでは権威というものが神のよって立てられているのだ、ということが述べられており、山内六郎氏は著書「信仰の手引き」で、「ルターの小教理問答書」を解説する中で、“統治者”に従うべきことを語っています。そういう意味では「裁判員制度」に従うべきだと言えます。上記のローマ書の御言葉は国家の一定の秩序というものを認めている言葉でもあるように思えます。無批判的に従うというのはいけないが、御言葉の許される範囲に置いて従うべきであろう。

 ただ、次ぎに問題になるのは「裁く」という問題です。人が人を裁けるのかということです。ヤコブ4:11「 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。」とあり、またルカ6:37 「『人を裁くな、そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。』」と、聖書で人を裁くことを戒めています。しかしここで語られている「裁くな」と言う御言葉は、ヤコブ書では「兄弟」に呼びかけられていますように、信仰を共にする仲間でのことだと理解することが出来ます。あるいは、さらに広めて人間同士とも捉えることができます。その人間の間で裁き合ってはいけないといわれているとも読めます。ルカ伝も同じようなことだと思います。いずれにしても、国家の秩序を保つ上での「裁き」のことが言われているわけではありません。ですから裁判はこの範疇に入らないだろうと思います。「律法」を神が設けられたというところには、「秩序」を保つ神であるということができます。

 そこで大きな問題なのが、裁判員は刑事裁判に関わりますので、「死刑判決」にも関わることが起こりうるということです。これはどうなのだろうか。出エジプト記20章13節に“あなたは殺してはならない”という十戒の戒めがあります。山内六郎氏は、裁判により死刑の宣告や執行はこの戒めに反しないと述べています。私もそう思うのですが、しかし?もつくのです。この「殺す」という言葉、ヘブライ語で「ラーツァハ」と言うが、様々に使われています。意図的な殺人を示唆する言葉として、あるいは意図的でない殺人の場合もあり、また民数記35章30節では「人を殺した者については、必ず複数の証人の証言を得たうえで、その殺害者を処刑しなければならない。しかし、一人の証人の証言のみで人を死に至らせてはならない。」と、死刑宣告をされた死刑を指す場合もあるようです。

 ともかくも“あなたは殺してはならない”という戒めの根底には、命は神に属するものというのがあり、その人間の命を奪うのは、神の代理となって行う行為だということを思い起させます。創世記9章6節「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」。神の創造における意図は、命は奪ってはならない、ということでしょう。ですから人間は神ではないのだから、命を自分勝手にしてはいけないのです。命をどう扱うか、それができるのは神のみであると言えます。人間の権威で命を奪ってはいけいないのです。

 ただ、十戒のこの戒めが全ての事柄において適用されるのか、ということがあります。出エジプト記21:12~17「 人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる。自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。」と語られています。この戒めは、神の創造の秩序を侵害した場合のことであります。ですから人間の権威で殺してはならないのであって、人間は神の媒体なのです。これらはイスラエルに与えられた戒めであるが、神の意志をどう識別するのか、それが問題になります。

 イエスは、マタイ伝5章21節以下で次のように述べています。「『あなたがたも聞いているとおり、昔の人は“殺すな。人を殺した者は裁きを受ける”と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に“ばか”と言う者は、最高法院に引き渡され、“愚か者”と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。』」とイエスは「和解」を求めています。神との和解が求められる。先にあげた旧約聖書での戒めの根底には、神の創造の秩序の回復という願いがあります。その神の意図を私たちは実現していかなければならないのではないかと思います。

 筆者は、「死刑」については否定的であり、むしろ終身刑のようなものを設けていく必要があるように思います。人は自らの罪を深く思い、その悔い改めが求められるのです。ともかく私たちは裁判員に選ばれる可能性はあります。恐らく裁判官と共に裁判員が合議して刑が決定されていくのでしょう。その際、自らの信条にしたがって意見を述べなければならない。その時には、人が人を裁くのです。その人の人生に私たちの判断が大きく影響するのですから、本当に謙虚に私たちは対応しなければならないでしょう。

 裁判員の選考が始まっているようで、断る方が多いと聞いています。自らの信条で断れるかどうかは知りませんが、でも、私たちはどこに立っているのかがとよれるような気がします。私はこの壮年の方の問いかけについて、十分に熟慮して書いたものではなく、片手間に書いたものですので、この文章は不十分なものです。けれども、一人の信徒であったとしても、問題意識をもって御言葉に照らし合わせながら考えて欲しいと思いますし、その切っ掛けになればいいと思っています。そのような信仰の営みの中で福音は日本に根ざしていくのだろうと思います。でも、単純な疑問ですが、こんな重荷を一市民に負わすべきなのかとも思う。

投稿者: 日時: 22:38 |