想像力

 数日前に用事を済ませて帰る途中の話しであるが、ある駅のプラットホームにある公衆電話の傍で電車を待っていると、学校帰りの女子高生が電話の傍にやってきて、家に電話をし始めた。何かお母さんと話している様子だが。筆者は、別に聞こうとしたわけではなく、傍にいたのでたまたま聞えてきたのであるが。どうして携帯電話を持っていなかったのか、親に持たせてもらえないのか、それとも学校に持っていってはいけないので、この時はもっていなかったのか、分からないが、ともかくも最近見なくなった姿である。

 電車の中で電話をしている姿も見なくなったが、しかしメールをしているのか、ネットをしているのか、じーっとケイタイを見ている姿はよく見る。でも、色んな形で他者とコミニケーションが取れる時代になった。しかし書かれた「言葉」というのは、時々怖いと思うことがある。保護司の研修が年に何度かあるのだが、その時に前もって「何々についての意見」というのを求められ、書いて提出することがある。それが一覧表になって参加者に配布される。神戸観察所主催の研修会の時、ある保護司が激しい意見を書いて出した。それに当日本人は休んだのだ。彼を知っている者たちは、これは“まずい”と思った。そのために“そこに書かれているようなことはなく、彼は喜んで保護司活動をしている”とある者が補った。確かに彼は、張り切って保護し活動をしている。でも私は彼の顔を見る度に、あのときの保護司の働きを否定するような言葉は何だったのだろうかと考えてしまう。「言葉」というのは本人と共にあるべきものだと思う。そこで初めて人と人との関係を作っていくように思う。そうでないと、その本来、その人が考えていたことと違った世界がそこに広がってしまう、ということがおこるように思う。

 話しは変わるが、数日前のニュースで、五、六名の中学生が「砂風呂遊び」ということをしていて、一人の子供が重症に陥った事故があった。四人の者たちが砂の中に首のあたりまで埋められ、二人の者が四人に砂をかける。自力で脱出した者は、さらに砂をかける側に回る。そして最後に残された一人の子供がみんなから砂をかけられることになる。そして口の中に砂が一杯に入っていたようで、呼吸困難を起こしてしまう。このニュースで、ふと思ったのだが、どうして中学生たちは、危険性ということが分からなかったのか、“こうした、こうなる。こうなるかも知れない”、そのへんのことが想像できなかったのかと思った。何か想像性の乏しさを感じる。

 礼拝でお話しをしたことですが、イエスの弟子たちが、イエスの名を使って悪霊を追い出している人がいて、その人が自分たちとは一緒でないという理由で止めさせようとした。それをイエスは“止めさせてはならない”と弟子たちを叱られた。自分たちと一緒ではないから止めさせる。一緒について行けない理由が彼にはある。12弟子団に加わることが出来ない信仰的な理由がある。それを理解するには弟子たちには。それを思い巡らす想像力が必要である。同じ教会の中でも、それぞれの生き方がある。信仰生活のスタイルがある。私だけが正しい、と思い込むのではなく、どういう理屈で一緒になれないのか、それを思い巡らす想像性が必要なのである。そしてそれと共に、主の御名があがめられることを第一の喜びとする、この二つの思いがあれば、弟子たちは、“止めさせよう”とは思わなかったことだろう。

 そのような思いが弟子たちに育たなかったのは、イエスがどうして苦しみを受けなければならなかったのか、それが分からなかったからだと言える。それにしても弟子たちは二度にわたってイエスの受難について聞いておきながら、あえて尋ねてでも詳しく聞こうとしなかった、その弟子たちの姿勢に原因があるのかも知れない。

 さて、どんな姿勢でイエスと向き合い、人と向き合っているのだろうか。そこで思い巡らし、想像力を発揮して理解しようとしているだろうか。凝り固まっていては想像性は出てこない。

投稿者: 日時: 2008年11月11日(火) 21:54