宗教とは

 鈴木大拙という人が、宗教について四つの点を挙げて下記のように語っている

一つは、社会的事象としての宗教。その一つに制度としての宗教集団がある。何々本山、檀家、信徒というように組織立てられた中か来る表現である。確かに宗教は社会生活の構成の一分子である。ですから宗教法人法というのが出来ているのである。

 二つ目は、儀式としての宗教。儀式のない宗教はない。経文の読み方にしても服装にしても、あるいは礼儀作法にしてもそうである。宗教のそれぞれに儀式がある。それは体と心の関係のようなもので、その宗教が持っている思想に相応しい儀式がそこにある。儀式のない宗教は体の無い心、まさに幽霊のようなものだ。儀式なくしてその宗教の生き方を現せ得ないのである。キリスト教、仏教、回教みなそうで、建物を比較してみればそれぞれの宗教の宗教感情生活の相違が出ている。

 三つ目は、知的方面からも宗教を観察する。人間の中には理性や知性があるのでこれと宗教とは切り離せない。しかし知性それ自身で宗教であることはできない。例えば、宗教は哲学の力を多少なりとも借りなければならない。

 四つ目が、道徳から宗教を見るのであるが、道徳と宗教は深い関係はあるが、宗教は道徳ではない。善人は必ずしも立派な宗教家ではないし、立派な宗教家だからといってその時代の人にとって必ずしも善人として通るとは限らない。宗教とは堂徳とは違う一方面を開拓しているのである。

 しかし大拙はこれらのものが精密に絡み合ったからといって宗教がうまれるりのではなくて、そこで重要なのが個人の体験だと言う。その体験とは平安をえること、仏教では涅槃と言うそうですが、それを言い換えて「常楽我浄」と言う。心が内外界に対して一定不変の態度を取る事が出来る。そういう平安を得るということだが。しかしそれを求める人間の不安はどうして生まれてくるのか。死を含めて総てのことに限界がある、それに気づいたとき人は不安を覚える。しかしそのことが、孔子が言ったそうだ。「十有五にして学に志す」と。その現実と自分の願う世界との矛盾を知れば知るほど、自らの内面を深く掘り下げることへと向かわせることも起こるが、この問題の解決策だが。

 大拙は「回心」と言う。人は窮すれば窮するほど、そこから脱出する。それが回心だというわけです。その脱出のための知の努力の必要性を説いている。

 私は大拙の言葉を読んでいた宗旨は異にするが教えられることもある。しかし「回心」のそれはキリスト信仰とは大きく異なる。人はどこまで自ら深めていけば平安を得られるのか、その悟りに至るのはほんの限られた人になるのではないかと思ってしまう。しかし聖書は、あなたの向いている方向を180度方向を変えて、イエスさまの方に心を向ければそれでいいと言う。そこから新たなる歩みが始まるのである。これは限られた一部の人々のものではなく、総ての人に開かれた平安を得る道である。

 最近は、無宗教の結婚式ね「人前結婚式」というのがあるようだ。「死が二人を分かつまで・・・」と神と会衆の前に約束します。彼らの結婚生活を支えるのは二人の愛であるが、その根底では二人を合わせられた神が支えてくださる。もし何かがあったときに、二人が帰るべきところがある。立て直すところがある。二人の愛を人々の前で明らかにしたからといってどういう意味があるのか。私はふと「無宗教の何々」というものに不安を覚える。何か人が根無し草のようになっていくのでは。人間の破れを塞いでくださる方が必要ではないか。

投稿者: 日時: 2008年11月04日(火) 17:06