2008年09月のアーカイブ

不安

 ベトナムの人が礼拝に来られました。彼は、タイル職人の研修生として3年間の予定で、今年の5月に来日しました。教会の近くの店で働いています。朝から晩まで働いて、夜にベトナムから持ってきた日本語の本で、同室のもう一人のベトナムからの研修生と二人で、日本語を勉強している。誰かが教えてくれるわけではない。なかなかコミュニケーションが取れない中で、仕事を覚えようとしているようだ。迎え入れたほうも大変だなと思う。

 それでも、カタコトの日本語は出来る。ベトナムでは家族そろって教会にいっていた。おそらくカトリック教会だと思われるが? 何度も同じことを繰り返して聞き、また話しをして、何とかお互いに理解できる状態である。その彼が、讃美歌を一緒に歌い、説教を聞き、祈りを聞きます。おそらくほとんど分からなかったでしょう。その日は、恵老の日(敬老の日)の礼拝であったので、昼食会は寿司で、オカリナの演奏もありました。彼は、その間、一緒に過ごした。それにテーブルを運んだり、配膳したり、よく手伝ってくれました。それに、私は午後から出かけないといけなかったのですが、青年たちが残って教会で遊んでいたので、彼も帰らないで一緒に遊んでいたようだ。

 言葉がほとんど通じないのに、何かしらないが、彼はみんなと一緒に過ごしていた。

 私は、午後から阪神間の諸教会の協力の働きで壮年の集いの実行委員長を務めているので、その集会のためにでかけた。止揚学園の福井達雨氏を迎えての集会でした。この集会に私は期待と不安がありました。集会時間が長くなり過ぎないか、先生ご自身も認識しておられるようですが、などなど。しかし、れらは吹っ飛んでしまった。

 先生のお話しの内容と止揚シスターズの讃美、それがピタットと合い、神様の愛、そして私たちの他者への愛が語られた。話しの中に引き込まれるようで。時間もほぼよい手通りに終わった。とてもいい集会になりました。恵まれた一時であった。
 
福井先生の話しの流れの中に、止揚シスターズの讃美がところどころに入るのですが、まったく打ち合わせをしていないとのこと。先生も会衆の様子を見ながら、自由に話しを途中で変えてしまうところがあるようで、この歌を歌ってくださいと、突然に言う。それにあわせて止揚シスターズの方が歌う。かなりの数の曲を彼女たちは覚えているようで、時には、使わなくなっている曲を突然に言われることがあり、その時は大変のようだ。そのような中での集会でした。一回、一回、神様の導きの集いになる。

 集会後、夕食をともにしながら、うちとけた楽しい交わりであった。先生も今回の集いを喜んでくたさった。朝からの礼拝から始まった今日の一日を振り返りつつ、感謝して家路についた。

投稿者: 日時: 22:31 |

人脈

 先週、私たちの教会は同じ教団内の高松教会と交わりをもちました。行きしなは神戸からフェリーでゆったりとした気分で行きました。さあ、何十年ぶりかのフェリーへの乗船です。車はあまり乗っていなかったようにも思いますが、人はまあまあ乗っていたようです。高松について驚いたのは、車を駐車場に置いておいて、フェリーに乗られるようで、たくさんの車が止めてありました。最近のガソリン代の値上がりによるのでしょう。下の写真はフェリーの船旅の様子です。
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 三年ごとの聖会で顔を合わすことはありましても、実際にその教会に信徒の方々が行って交わりを持つということは、そんなにあるものではありません。10名ぐらいの参加を考えていたのですが、13名の方々が行ってくださいました。それぞれの教会から証し者を立て、Sr.山崎のメッセージをいただきました。そこで感じたのはそれぞれに立てられた証者に教会の特徴が出ているのかなと思いました。神様はそれぞれに相応しい導かれ方をされると思いました。また、それぞれお互いに信仰の刺激になったのではないか、何かを得たのではないかと思います。下の写真がその風景です。
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 よく、「人脈」ということを言います。人脈をどれだけ持っているかによって、仕事でも成功するか、しないか、それに影響するということがあります。しかし、“私はあの人を知っている”というのでは人脈とはいえません。こっちが知っていると思っても、向こうは覚えていてくれなかったということがあります。また、“あの人はきっと私の役に立ってくれるだろう”と考えている関係は余り長続きはしないと思います。「人脈」というのは、“私があの人に何が提供できるか”という関係だと思います。自分が提供できるものを持っている。与えていく。それが結局は、また自分に戻ってくることなのだと思います。それが「人脈」だろうと思います。

 祈祷会でガラテヤ書を学んでいますが、そこでは「律法と福音」ということが教えられています。「律法」というのは、相手を価値判断することで、それによってこちら側の態度が決まるということです。世の中というのはこれで動いていると言えます。例えば、「ご利益」という言葉があります。自分にとって価値のある間は神として崇めるけれども、価値がなくなると捨ててしまう。そんな関係です。

 しかし「福音」は、相手の状況に関係なく愛を注いでいくものです。それが神の愛です。価値判断によって左右されることなく、変わることのない愛が注がれていくのです。それが自由というもので、価値判断によって態度が変わるというのは、それは自由ではなくて、価値判断という「律法」に縛られているといえます。福音に生きるということで新しい人間関係が生まれてくるように思います。

投稿者: 日時: 10:36 |

ハイタッチ

 先週の金曜日ですが、朝の挨拶運動ということで、私は小学校の門の前に立って他の地域の方々と一緒に登校してくる子どもたちを迎えました。これは小学校校区単位で作られている青少年愛護協議会主催のものです。

 8時ごろから子どもたちが集団当校してきます。「おはようございます」と声をかけます。同じように「おはようございます」と返してくれる子ども、黙って通り過ぎる子ども、色々ですが、よく、挨拶を返さない子どもについて家のしつけがどうのこうのといわれる方々もいますが、私は余りそのようなことは思わない。その子の性格とか、様々な要素がそこにあり、そう単純に批判は出来ないというか、余りしたくないのです。まあ、それはともかく、登校して来た子どもの中で数名が、私を見つけて「先生!」と声をかけ、ハイタッチをして校門の中に入っていきました。彼らは夏期学校に来ていた子どもたちです。

 今年の夏期学校は遠方から誰も来られなかったけれども、この地域の子どもたちが15名ほど参加してくれました。普段の教会学校にはなかなか繋がらないのだけれども、私は希望を捨てていません。彼らが成人したときに何らかの形で、この子どものときの経験が活きてくるということもあるかも知れない。

 この主日礼拝で、私が語ったことですが、イエスは、聖書の中で三度受難の予告をしていますが、それに関わらず福音書のいるところで苦しみを受けることをほのめかしています。イエスは苦しみを受け、殺されることを覚悟して働いておられました。しかしそれだけでなく、明るい見通しも同時にもっていました。

ルカ9章22節
「次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』」

 ここに「復活する」と訳されていますが、この言葉は「起き上がらされる」「立ち上がらされる」という言葉なのです。それを「復活する事になっている」と訳しているのです。この言葉は、イエスが、中風の人に対して「起き上がりなさい」と言われたときに使われていますし、ヤイロという人の娘が死んだときにも。その娘に向かって「起きなさい」と言われたときにも使われています。その受身形の言葉なのです。ですから「復活する」と訳されている言葉は、死とからの復活とは限らず、もっと広い意味でも使われます。

 イエスは苦しみを受けるという覚悟とともに、神は立ち上がらせてくださる、という見通しを持っておられました。22節に「必ず」とありますが、これは日との子と表現されているイエスが受けるべき苦しみを語っているのですが、それと同じように神の側にも必ず果すべきことがあるのです。それが「立ち上がらせる」ということなのです。その神の必ず果たすべきことがある、それに対する信頼がイエスにはあったのです。

 その明るい見通しに私たちも見習って生きたいものです。私のなすべきことをなし、後は神のなすべき事にお任せする。そんな歩みをしたいものです。

投稿者: 日時: 18:17 |