一言居士

 ある祈祷会のメッセージ(最近は、レジメを作っている)の中で、「一言居士」という言葉を使った。このような言葉を使うと人の心を引くようだ。“一言居士、誰々さんみたいですね”という言葉が出てきたり、“高いお金を払って仏教では何々居士という戒名を買うわね”、そんな話しが出てくる。それは説教者が意図しているところではないのだが、つい横道にそれてしまう。

 「一言居士」というのは、とにかく自分の意見を言わないと気がすまない人のことであるが、悪くいえば、文句を言わないと気がすまない人のことだが、この「居士」という言葉は、もともとと徳学が高く仕官をしない人のことをいったようだが、それが仏教では、出家しないで在家で生涯修行を積む人を言うようだ。それが戒名の位としてお金で買い取られる。生涯まったく信仰と縁のなかった者が死んでからお金で「居士」という名前をもらう。どうも変である。釈迦の意図したところではないだろう。ちなみに「居士」というのは男性につけられる位である。

 それで、どうして私が「一言居士」という言葉を使ったかと言うと、ガラテヤ書はパウロの書簡だが、ガラテヤの教会にパウロが伝えて福音とまったく異なる教えを伝える人々が現われてきたので、それに対する,言わば戦いの書簡と言うべきものです。ですから大変激しい口調で語りだされている。1章のところでは「呪う」という言葉すら出てくる。しかしそれが6章に入ると一変してしまう。罪を犯した者を「柔和な心で正しなさい」という言葉が出てくる。この変化の意味について考えた時に出てくるのである。

 パウロという人物は、単なる「一言居士」ではない。ただ文句をいっている人ではなくて、バランスの取れた人物だと示しているのではないか、いや、本来は柔和な人なんだけれども、しかしどうしても怒らなければならないことが起こった、ということとして理解することが出来るのではないか。パウロにとってそれほどの重要な事柄であったということである。

 それでどうだろうか、私たちは怒るべきこと、そうでないこと、はっきりしているだろうか。どうでもいいことに腹を立てたり、怒るべきことを怒らないでいるのではないか。もし、怒るべきことを持っていたとするならば、それは何か。どうでもいいことかも知れない。パウロがどうしても怒らなければならないこととしたのは、神に関することであった。先ほどの戒名の話しではないが、どうもそれが、今日では、どうでもいいこととして扱われているような気がする。

 先日、もう私たちの教会に、20年近く来ていただいているが、保育コンサルタントの大塚先生、もう70歳になられるわけだが、いつもこひつじ園での母親教室で信仰の大切さを語ってくださる。ご自身も信仰の家庭に育ち、それこそ戦後の「ないないづくし」のなかで、豊かさというものを見て取ってこられた。それをこの度「無い無い尽くしにあったもの」という題で本にまとめられた。どれだけ神を尊ぶということが人生を豊かにすることか。計り知れないものがある。最近は世界を金融不安が襲っているが、今こそ神に富むべき時ではないかと思う。

投稿者: 日時: 2008年10月27日(月) 22:10