こどものように

 こひつじ園で9月30日に“親子で遊ぼう”を行いました。礼拝堂のイスをのけて、広くなったところを子供たちは走り回りました。楽しい一日でした。したの写真がその様子ですが、しかし残念なことに、この日、四人の子供たちがお休みでした。でも、普段よりもすくないけど、子供たちは元気にお母さんと一緒に夢中になって遊びました。
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 今、祈祷会でガラテヤ書を学んでいるのです。現在は5章に入っていまして、4節以下を10月1日と2日の祈祷会で学びました。そこで11節の終わりから12節の言葉ですが次のようにありました。「そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」。

ここでパウロは割礼のことを取り上げての言葉です。その割礼の必要性をガラテヤの教会の中で宣べ伝える律法主義者がパウロにとって我慢ならないのは言うまでもありません。割礼は肉体の一部に傷を入れることですが、その割礼をもじって皮肉に、去勢したらいいといっています。激しいパウロの表現です。

 しかし、パウロはガラテヤ5章22節以下で、寛容、自制、柔和などのことを言っています。ですから今いったことの裏腹なことになります。自分の敵に対して去勢したらいいと言うのは、これは寛容でも柔和でも自制でもありません。自分の感情をむきだしで、パウロの人間的な姿の一面を現しています。少し慎みがたりないのではないかと思います。パウロのうちにある矛盾と言えるのではないでしょうか。

 しかしパウロは福音の使徒として召されたことには変わりがありません。このように激しい言葉が出たのは、福音が危機的な状況に置かれているからです。そこから出てきているのです。そこを考えなければなりません。パウロは自分のメンツが潰されたといって怒っているのではありません。保身ではないのです。自分のためにケンカをしているのではなくて、福音がどうなるかということで戦っているのです。思わずほとばしり出たパウロの思いです。

 何か一つのことに夢中になっている子供のようなパウロを思いました。色々と足りなさはあるけれど、神様に召されたところに夢中になる、そのような子供のごとくありたいですね。

投稿者: 日時: 2008年10月03日(金) 16:58