肩書き

 ある牧師から名刺をいただいた。表には、無論、何々教会の牧師と書いてある。しかし、ふと裏を見てみると・・・、たくさんの肩書きが書いてある。いわゆる超教派での活動のその牧師が置かれている立場であるが。牧師によっては、そのような肩書きをたくさん書いている人もいれば、様々な活動はしているけれども、牧師以外の肩書きをあえて書かない人もいる。どうして多くの肩書きを名刺に書くのか、あるいはどうしてあえて肩書きを名刺に書かないのか、ひょっとしてその心の動きというものに大差はないのかも知れない。ただ、名刺の表に書かれている肩書きをどう理解し、受け止めているかが重要であろう。

 ちなみに私の東鳴尾ルーテル教会の牧師という肩書き以外の肩書きを挙げてみると(以下に述べる肩書きは名刺には書いていない)。

 超教派の活動の方では、阪神壮年員会の委員長があり、また神戸ルーテル神学校後援会役員というのもあるが、私は教会関係よりも一般社会での肩書きのほうが多い。ただ誤解しないでほうしいのだが、私は社会派牧師ではない。そんな大それた者でもないのである。

西宮保護区・保護司
西宮市立浜甲子園中学校・学校評議員
西宮市福祉委員
東鳴尾1丁目自治会副会長
鳴尾東地区青少年愛護協議会理事
鳴尾東コミニティ協議会常任理事 etc.

 見ていただいて分かるように地域活動での肩書きである。こう並べてみると、ちょっとやりすぎかな? と思いますが、確かに「しんどいな~」と思うことがありますが、だが、これは自分から進んでしたことではなく、地域の方々から頼まれてのことである。私の性格からすると、どうも頼まれると断れないのである。

 少し言い訳をさせてもらうと、東鳴尾ルーテル教会が活動の方針としてきた一つが「地域に根ざして」というのがある。その方針で長年活動してきた。いわばその信仰的な判断の流れの中で与えられた私の肩書きだと言える。好むと好まざるとに関わらず与えられたとも言える。教会とうのは、無論、この地域から来ている会員もいるが、しかし、教会として地域に根ざしていくというときに、牧師の姿勢というのが一つの鍵になると思う。無論、会員の皆さんの働きは重要ですが。

 福音書というのはとても面白い書物だ。例えば、マタイ福音書で描かれている人間像というものを考えてみると、楽観的だといえる。どういう意味でかと説明をすると、どのようなメシア像を描いているのかによるのだが。イエスは律法の新しい解釈を示している。福音書の半ばぐらいで、「『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』」(マタイ11.28以下)。ここでの律法に対するイエスの理解は、実行可能なものとして解釈し直している。神の倫理的な求めは人間の能力を越えた過酷なものではない。実際にマタイ伝が求めていることは、飢えた者には食事を与え、渇いている者に飲ませ、裸である者には着せるなど、初歩的な人間の行為である。

 さらにマタイ伝は光の比喩が多い。イエスは弟子たちに「あなたがたは世の光である」と呼びかけ、さらに「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5.16)と要求している。地域に根ざすとはこういう意味であるが、十人の乙女の譬えのように、常に油を用意しておきたいものである。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」(マタイ10.27)と言われているように、イエスの言葉と行いの光がこの無世界の中で輝き渡るためにも、イエスとの深い関わりを、日々、深めて行きたいものだ。

投稿者: 日時: 2008年10月13日(月) 13:22