2008年08月のアーカイブ

お盆によせて

 夏は死者を思う時でもあります。子供のころ、線香を持ち、舟に一杯果物などを乗せて海に流しに行ったことを覚えている。叔父が、舟を担いで、海の中に入り、そして流した。浜辺に線香を立てて手をあわせた。その叔父も今はいませんが。

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 盆になると里帰りがなされ、墓参りにいったりしますが、それは夏の風物詩でもあります。日本人は死者とどのように関わってきたのだろうかと思いますが、縄文時代は、墓を囲むように集落を形成していたようです。しかし縄文時代の後半になると、墓は人の住む集落から離れたところに作られるようになりました。その理由について色々と議論があるそうですが、一つ言えることは、死の発見と言えます。死者はどこへ行ってしまったのかということです。消滅してしまうのではなくて、別の世界へと移動すると考えたのです。それは彼らにとって慰めであり、また自分自身の将来に対しても心穏やかにするものとなります。縄文人にとって、その死者の行へは、人間の生活している世界とは異質な死者だけの世界があり、そこで独自の生活を営んでいると考えたようです。しかしあくまでも人間社会の延長線上にあり、死者は活動をやめた仲間なのです。

 彼らは墓地で死者が穏やかに生活することを願った。それにしても墓は古代において大きなものが造られました。様々な理由があるようですが、一つに、故人の霊をそこに留めたいという願いがあったようで、そのために様々な工夫がなされています。霊がそこに留まるという意識を与えたのが樹木で、木が植えられたりもしたようです。彼らは樹木に霊が宿ると考えていました。それだけではなく、神とも密接な関係があります。例えば、出雲大社の本殿の中心に立つ柱が「心御柱」と呼ばれています。また神々を「・・・柱」と数えたりします。

 古代から死の向こうにも命があることを見ようとしてきたようです。それも死の世界が平和で平安で暮らせるようにと言う願いがありました。先に叔父の話しをしましたが、叔父は長崎で被爆をしています。今日は63回目の終戦記念日、あの世の平和だけではなく、この世の平和の祈りを強くしたいものです。

 聖書にも「樹木」は出てきますが、神として祀られることはありません。むしろ木にかけられる者は呪われた者だという記述すらありまのす。その木にかれられたのはイエス・キリストです。新約聖書のガラテヤ書3章13節に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」と書いてあります。律法とありますが、法律を破った者は裁きを受けなければなりません。人間の歴史は争いの歴史だといわれますが、戦争だけでなく、一人の人間としてもどれだけ人の心を傷つけてきたことか。イエスはその人間が受けるべき裁きを身代わりに受けてくださったのです。「愛」と「和解」を教えるためにです。そのイエスが言われています。ヨハネ伝15:12「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とです。

投稿者: 日時: 23:30 |

極楽に往生

 鎌倉時代の説話集に「宇治拾遺集」の中にある話しですが、清徳聖という聖人がいました。母が亡くなり柩に入れて、愛宕山に登り、四つの石の上にのせて、千手陀羅尼を唱えながら不眠不休で棺の周り回り続けて三年が経ちました。そのある日、夢に母が立ちまして、「早々、天界に生まれましたが、仏となってあなたにお伝えしようと思って、今まで告げることのないままおりました。今は仏になって、こうして話しをするのです」。聞いた清徳は、母の成仏を確信すると、遺骸を焼いてその骨を埋め、上に石の卒塔婆を立てて離れます。

 当時の信仰の様子がわかります。遺体と共に霊が存在し、その供養のためにその周囲で修法を続けるのです。そして救済が確定すると、霊魂も遺体の周囲にはいなくなり、それで清徳も遺骨を処理して、平安のうちにそこを去り、再び母の墓を訪れることはなかったということです。そしてその墓は野へと消滅していくのです。当時は、このような思想だったので、墓(遺骨)に対する執着心と言うのはなかったようです。墓に対する思いが出てくるのは、のちのことで、寺の境内に埋葬され、檀家制度というのが確立していく中でのことです。ですから安土桃山から江戸にかけてのことでしょう。

 こんな話しもあります。「日吉山王利生記」の説話ですが、真源という比叡山の碩学が、夢の中で早世したはずの厳算という阿闍梨に出会い、厳算は次のように言ったというのです。「自分は生前学問に力を入れたつもりだったが、名利を貪る心に妨げられて、悪道に落ちそうになった。それを哀れんだ日吉権現が、近くの八王子谷に住まわせて、不足している修行を積ませるべく加護を加えている。すぐさま極楽浄土に往生できる者は問題ないが、そこまで行かない自分たちのような比叡山の関係者は、みな奥山のなかで生前と同様修学にいそしんでいた」と。

悟りを目指して修行を積みながらも、様々な理由によってそれが叶わなかった僧侶が、寺の近くで苦しい試練に耐えつつ、生前と同様の修学を継続するという話しは、東大寺の「今昔物語集」や興福寺の「春日権現験記」などにも伝えられているようです。浄土に往生するまで死霊が世に留まって修行を継続するというのであります。

 このように見てくると日本人の中に、極楽浄土に往生するためには、何か一定のものを満たさなければ極楽には行けない、そんな考え方があったようた。家族の者か、あるいは本人かがその行を積まなければならない。死ぬこともなかなか大変だ。こういうのを律法主義と言えないだろうか。聖書の言葉に(ヨハネ伝3:16)「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というのがあります。ここに「神は、独り子を与えた」と言っていますが、人が神の国に入るために、必要なものを「独り子」即ちキリストが満たしてくれた、というのです。キリストのありがたさが身にしみる。

投稿者: 日時: 22:43 |