人脈

 先週、私たちの教会は同じ教団内の高松教会と交わりをもちました。行きしなは神戸からフェリーでゆったりとした気分で行きました。さあ、何十年ぶりかのフェリーへの乗船です。車はあまり乗っていなかったようにも思いますが、人はまあまあ乗っていたようです。高松について驚いたのは、車を駐車場に置いておいて、フェリーに乗られるようで、たくさんの車が止めてありました。最近のガソリン代の値上がりによるのでしょう。下の写真はフェリーの船旅の様子です。
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 三年ごとの聖会で顔を合わすことはありましても、実際にその教会に信徒の方々が行って交わりを持つということは、そんなにあるものではありません。10名ぐらいの参加を考えていたのですが、13名の方々が行ってくださいました。それぞれの教会から証し者を立て、Sr.山崎のメッセージをいただきました。そこで感じたのはそれぞれに立てられた証者に教会の特徴が出ているのかなと思いました。神様はそれぞれに相応しい導かれ方をされると思いました。また、それぞれお互いに信仰の刺激になったのではないか、何かを得たのではないかと思います。下の写真がその風景です。
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 よく、「人脈」ということを言います。人脈をどれだけ持っているかによって、仕事でも成功するか、しないか、それに影響するということがあります。しかし、“私はあの人を知っている”というのでは人脈とはいえません。こっちが知っていると思っても、向こうは覚えていてくれなかったということがあります。また、“あの人はきっと私の役に立ってくれるだろう”と考えている関係は余り長続きはしないと思います。「人脈」というのは、“私があの人に何が提供できるか”という関係だと思います。自分が提供できるものを持っている。与えていく。それが結局は、また自分に戻ってくることなのだと思います。それが「人脈」だろうと思います。

 祈祷会でガラテヤ書を学んでいますが、そこでは「律法と福音」ということが教えられています。「律法」というのは、相手を価値判断することで、それによってこちら側の態度が決まるということです。世の中というのはこれで動いていると言えます。例えば、「ご利益」という言葉があります。自分にとって価値のある間は神として崇めるけれども、価値がなくなると捨ててしまう。そんな関係です。

 しかし「福音」は、相手の状況に関係なく愛を注いでいくものです。それが神の愛です。価値判断によって左右されることなく、変わることのない愛が注がれていくのです。それが自由というもので、価値判断によって態度が変わるというのは、それは自由ではなくて、価値判断という「律法」に縛られているといえます。福音に生きるということで新しい人間関係が生まれてくるように思います。

投稿者: 日時: 2008年09月22日(月) 10:36