ハイタッチ

 先週の金曜日ですが、朝の挨拶運動ということで、私は小学校の門の前に立って他の地域の方々と一緒に登校してくる子どもたちを迎えました。これは小学校校区単位で作られている青少年愛護協議会主催のものです。

 8時ごろから子どもたちが集団当校してきます。「おはようございます」と声をかけます。同じように「おはようございます」と返してくれる子ども、黙って通り過ぎる子ども、色々ですが、よく、挨拶を返さない子どもについて家のしつけがどうのこうのといわれる方々もいますが、私は余りそのようなことは思わない。その子の性格とか、様々な要素がそこにあり、そう単純に批判は出来ないというか、余りしたくないのです。まあ、それはともかく、登校して来た子どもの中で数名が、私を見つけて「先生!」と声をかけ、ハイタッチをして校門の中に入っていきました。彼らは夏期学校に来ていた子どもたちです。

 今年の夏期学校は遠方から誰も来られなかったけれども、この地域の子どもたちが15名ほど参加してくれました。普段の教会学校にはなかなか繋がらないのだけれども、私は希望を捨てていません。彼らが成人したときに何らかの形で、この子どものときの経験が活きてくるということもあるかも知れない。

 この主日礼拝で、私が語ったことですが、イエスは、聖書の中で三度受難の予告をしていますが、それに関わらず福音書のいるところで苦しみを受けることをほのめかしています。イエスは苦しみを受け、殺されることを覚悟して働いておられました。しかしそれだけでなく、明るい見通しも同時にもっていました。

ルカ9章22節
「次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』」

 ここに「復活する」と訳されていますが、この言葉は「起き上がらされる」「立ち上がらされる」という言葉なのです。それを「復活する事になっている」と訳しているのです。この言葉は、イエスが、中風の人に対して「起き上がりなさい」と言われたときに使われていますし、ヤイロという人の娘が死んだときにも。その娘に向かって「起きなさい」と言われたときにも使われています。その受身形の言葉なのです。ですから「復活する」と訳されている言葉は、死とからの復活とは限らず、もっと広い意味でも使われます。

 イエスは苦しみを受けるという覚悟とともに、神は立ち上がらせてくださる、という見通しを持っておられました。22節に「必ず」とありますが、これは日との子と表現されているイエスが受けるべき苦しみを語っているのですが、それと同じように神の側にも必ず果すべきことがあるのです。それが「立ち上がらせる」ということなのです。その神の必ず果たすべきことがある、それに対する信頼がイエスにはあったのです。

 その明るい見通しに私たちも見習って生きたいものです。私のなすべきことをなし、後は神のなすべき事にお任せする。そんな歩みをしたいものです。

投稿者: 日時: 2008年09月08日(月) 18:17