ものごとは考えよう?

 よくものは考えようだといいます。確かに物事をどう解釈するかということによって事態は大きく変わっていくということがあります。
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 例えば、俗に言われることですが、キリスト教というのは旧約聖書を土台にして生まれてきたといいます。しかし旧約聖書を元にして生まれてきた宗教にユダヤ教やイスラム教もあります。しかし、なぜこんなにも違うのでしょうか。それは旧約聖書の読み方が違うからだと言えます。

 では、イエス様はどのように読んだのでしょう。ルカ7章22節でイエス様は救い主のしるしとして六つの出来事を挙げています。六つの項目を挙げています。「目の見えない人」が見える。「足の不自由な人」が歩く。「重い皮膚病を患っている人」が清められ。「耳の聞こえない人」が聞こえ。「死者は生き返る」。「貧しい人」が福音を聞きます。

 これは、例えば、旧約聖書のイザヤ35章5節~6節、「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。その時、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」。そして61章1節~2節、「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私を捕らえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために、主が恵みをお与えになる年」と書かれています。

 イエス様はそのような言葉に目を留め、神様は高きにおられる方だけれども、このように小さき者に目を留められる方だという一面から、角度から読まれたのです。ですからご自身が神の子として遣わされたとき、自ら身を低くされ、十字架の死に至るまでも低くなられて、人間の救いを完成されました。ここに愛に生きるという姿勢が生まれてくるのです。

 パウロは、イスラエルの民が福音を受け入れなかったことについて次のように言っています。新約聖書のローマ11章11節「ユダヤ人が躓いたことは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりました」と言っています。更に彼らも福音を受けられるようになれば、なんと素晴らしい事だろうというようなことも言っています。マイナスをプラスとして捉え、同胞も必ず福音を受け入れる時がくることを信じて、パウロは福音を伝える使命に生きました。

 事態をどのように受け止め、理解し、対処していくのか大事なことです。人生には様々なことがあります。特にマイナス的なことが起こった時が大変です。他人のせいにしたり、社会のせいにしたりしながら、不満を持ちながら生きてしまいますが、しかし自分自身のあり方によって事態が変わっていくことってあると思います。信仰というのは、そんなことも起こしてくれます。

投稿者: 日時: 2008年03月03日(月) 14:20